カナダでゲーム屋三昧 #23

作品とは永遠に完成しないもの

作品は作者と読者で完成させるもの
昔から、批評家というのは何のためにいるのかと考えていました。映画監督が何を考えてつくったのか語ればよくて、他人が「それはこういう意味が隠されているのでは」「それは誤訳だ、本当に言いたいのは…」とか本人のいないところで喧々諤々と議論している。そんなことに何の意味があるのだろうか、と。

クリエイティブな作品は、いや作品だけでなく俳優であったり首相のような公人であっても、果ては架空のキャラクターであっても、常に批評や解釈にさらされます。人気が出れば出るほど、その解釈も多数多様になっていきます。『アナと雪の女王』も男性からの解放と同性愛を巡る物語など別の意味が読み込まれ、その二次創作の数はYoutubeをみれば数え切れません。

創る側からすると、実際にこうした批評そのものが作品に与える重要性というものをひしひしと感じます。その解釈の正統性・妥当性は問いませんが、こうした作品を後から反芻したり遊ぶという行為そのものが、思ってもみない解釈へと進化し、結果的に作品の価値を想定していない形にあげてくれるのです。
 
この1年間Newspickというニュースアプリで『ニッポンのゲーム屋』
https://newspicks.com/news/1000522?ref=user_9160という連載をこのTORJAと並行で続けておりました。このサイトは何が秀逸かというと、書いたものそのものよりもそこにコメントしてくれて書かれたものの量のほうが圧倒的に多いのです。そのコメントは作者である自分以上に、詳しい専門家によって深堀りされることが多く、それに対してさらに議論が活発化します。

自分が最初に意見をいったものの、議論の後半戦には一切参加せず傍観者になってしまったりもします。作者というのは、必ずしも起承転結で物語を終了させる責任はないのだなと思います。解釈の余地のある「切り口」を提示して、あとは皆の議論や発想がわきおこる場をつくる。それだけで十分に作品として成立しうるのです。

批評による作品の進化
批評家の重要性に気づいたのはロランバルドという哲学者の言葉でした。「物事には『むこうから迎えにきてくれる意味』と『こちらから探しに行かなくては(かつ見つかる保証のない)見つからない意味』の二つがある」と。「迎えにきてくれる意味」とは、まさに作者が書いているシナリオどおりの意味。「探しに行く意味」とは、当初作者が想定していようとしていまいと、読者が読み解いて解明していくものです。批評家というのはまさにこの探しに行く意味の探検家であり、作者本人ですら気づかない偏見や時代の考え方を、的確に指摘することを職業としている人たちです。

1983年にナムコのゼビウスというゲームがありました。これはまさに「探しに行く意味」の塊のような作品でした。16のステージのマップが重なり全体で一つの地図を形成していたり、地上絵のような意味ありげな背景も多く、キャラクターの動きも敵機がプレイヤーに向かわずに逃げてしまったり、様々な解釈を呼びました。隠しコマンドも多く、ユーザーはこのゲームに隠された意味を読むことに熱狂しました。のちに開発者は「ここまでのことは実は考えていなかったのだけれど、、、」と語っていましたが、結局ゼビウスが時代に火をつけ、こうした探究要素の強い作品がこの後たくさん生み出されることになります。

結局作品とは、作者のものではなく読者のものです。批評行為は読者からみるとその作品をもっと理解したいまわりに伝えたいという愛情そのものであり、人々の関与の現れなのです。そしてその関与の塊があって、作品自体も磨かれます。少年ジャンプの漫画の掲載順位は読者のアンケート調査の結果ですし、アメリカのドラマはユーザーの声が実際に物語の結末を左右するところまで影響を及ぼします。

流行語など、まさにその最たる例でしょう。当の本人は何の気なしに発した言葉が、その時代時代で人々の心情を語るのに偶然あてはまっていたことで、あっという間に普及する。予想もつかない形で言葉が使われ、あっというまに言葉は作者のものではなく読者のものになります。およそ言葉も物語も、歴史に残るものは等しく、読者によって運び込まれ、改変されて、いまある形に落ち着いたに過ぎません。

作品は「開かれている」必要があります。批評や解釈がされない作品というのは、人々の関与を引き出せなかった作品です。解釈・批評を受けないとある意味作品は完成されません。作品が完璧であることなど、ありえないのです。

私は過去4冊本を出しましたが、批評を浴びた作品と浴びなかった作品で、その後の理解や経験値に格段の差があります。『ボランティア社会の誕生』は大学論文を加工した学術向け書籍で、数作の本で引用されているにすぎず、自分のアイデアが正しかったのか否かもわかりません。いわば出しきって終わってしまった作品。『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』は重版出来で、その本をきっかけに多くの人に出会い、その後の1年間だけで講演会は13回こなし、ソーシャルゲーム業界に関する情報は出版「後」に飛躍的に伸びました。

専門家とは専門家だから作品を出すのではなく、作品を通して色々な解釈や批評を受け止め、考え続けるから専門家になるのではないか、と思います。ありふれた結論になってしまいますが、作品を出すことは目的ではなく、自分の視点をパブリックなものとして赤裸々にして、批判を受けとめるための最初の入口なのだというのが最近の気づきです。スタートにたち、批評や解釈を受け入れ、磨いて磨いて、自分の作品は最終的な着地点へと落とし込まれるのです。

私ごとになりますが、2016年から新しいミッションをもって、VancouverからSingaporeに移動しています。Vancouverもかわらずカナダから北米市場を中心に開発が続けられますし、今度はAsiaにおいて別の形で事業展開を続けていく予定です。『カナダでゲーム屋三昧』は『世界でゲーム屋三昧』になりますが、今後ともぜひ応援よろしくお願い致します。

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nakamura-atsuo中山 淳雄
Bandai Namco Studiosのバンクーバー法人にて、欧米向けモバイルゲームの開発スタジオ責任者。2004年東京大学西洋史学士、2006年東京大学社会学修士、2014年Mcgill大学MBA修了。(株)リクルートスタッフィング、(株)ディー・エヌ・エー、デロイトトーマツコンサルティング(株)を経て現在 に至る。著書に”The Third Wave of Japanese Games”(PHP, 2015)、『ヒットの法則が変わった いいモノを作っても、なぜ売れない? 』(PHP、2013)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHP、2012)、他寄稿論文・講演なども行っている。