日本から震災・復興に 向き合う人々 武藤 英孝さん

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日本製の食品を広く世界に紹介できるようにKosher認定の事業を行うKosher Japan代表の武藤英孝さんと日本在住のユダヤ人ラビ(宗教的指導者)のエデリーさんは、東日本大震災発生直後から被災地に駆けつけて支援活動を行っている。
今回は武藤さんに震災後すぐに支援活動のため東北の地に車を走らせた当時の状況を振り返ってもらった。

特別寄稿 武藤 英孝さん

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集合写真

支援活動は現在も続いている

支援活動は現在も続いている


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被災地にかけつけ支援活動を行う


2011年3月11日、東京も大地震でした。私の事務所や自宅、店舗など全て強く揺れて、棚にあるものや本箱の書類が飛び出しました。同時に交通機関はすべて止まり、電話、携帯電話も使えず、私はなんとか自宅に戻り、12日の午前にやっとラビと連絡がやっと取れました。そしてテレビもラジオもないラビは、何かあったのかと私に説明を求めてきました。説明を聞いたあと、すぐに宮城県に行きたいと言い出し、どうしても行くと言い始めました。
テレビでは東北には行かないように、落ち着いて行動するようにと何回も放送されており、自衛隊が出動しているから大丈夫だとラビをなだめ、すこし様子をみようと提案しましたが、そんなの全部噓だと言い出し、子供のように何とか行かせてくれと嘆願したかと思うと、お前は男か、などと高飛車に言い出したので、仕方なく同意してとりあえず車のバンに載せられるだけ食糧を持って詰め込み、ジャーナリストの若林氏と3人で13日の夜に出発しました。

東北にむかう途中、ラビがちらっと大金を見せたので、どうしてかと聞くと奥さんがChabad Houseが持っているすべてのお金だと言いました。電気代として2万円だけ残して全部使ってくださいと言われ、相当の大金を持ってきたと言うのです。(後で分かったのですが、そのお金は家を買う資金でした。)道中は、高速道路が閉鎖されていたのと福島の原子力発電に不安があるとのことなどを考慮しながら、国道4号で北上しました。風景はあまり変わらず、時々、道に亀裂や陥没があったりするので迂回迂回の連続で、さらに途中には宮城県の東松島のサラリーマン風の人が電車やバスがないのでヒッチハイクをしていたので乗せてあげ、宮城県岩沼に向かいました。この岩沼市の玉浦は、父が工場で仕事をして私自身も育った恩がある地でした。何とか岩沼市玉浦に着くと、町の中は一見穏やかに見えました。水や電気はないが、ガスはプロパンがあるので、そのうち良くなると町の人たちの説明で一時は安心しました。町を走りながら海を目指したところ段々状況がつかめてきて、自衛隊や捜査犬が、がれきの中や、海水の水溜りに何回もダイブしていました。夜は、暖がなく心臓が止まるくらい寒かく、段ボールを積んできたので住民の人に有り難がられましたが、同時に警戒されているのがよく分かりました。ラビは、年配者から悪魔みたいといわれ、せっかく集めた食料を配ろうとしても、施設の管理者から、全体に配れる数をそろえないと受け取れないと言われたので、私たちは俄然力が湧き一方的に避難所で配りました。
それからガソリンスタンドに長蛇の列ができていて多くのスタンドが閉鎖していることに気付き、すぐに戻ろうと車を東京に向けて走りましたが、後200キロぐらいでガソリンが切れ福島で止まってしまいました。今度は、車を置いて何とかヒッチハイクで帰ろうと車を止めようとしましたが、中々止まらず、途方に暮れるなかで、何とか東京まで行く車を見つけ乗せてもらい、帰ってきました。
朝1時に東京に着き、自宅へと向かいました。私は非常に疲れて、まだ片付けの終わらない、散らかった部屋で寝て、遅く会社に出勤し、そこでも片付けをして、早めに自宅に帰り、7時ごろ寝ようと思ったときにラビから電話がきたので取ると、私の家の前にトラックで来ていると言い、「岩沼に行きましょう」と言うので、びっくりしてしまい、2回目の宮城県に行くことになりました。

今度は途中吹雪で普通タイヤのトラックは、何回も回転し、崖に落ちそうになったりしました。私は、簡単についてきた自分の行動を浅はかだったと思いながら、前方の見えない、街頭も信号も消えて、どこから道でどこから崖か分からない山の坂道を、ラビから「止まるな、止まるな」と檄を飛ばされながら運転を続けました。
ふと助手席のラビをみると、聖書を読みながら大きな声で拝みながら、 止まるな、止まるなと言うだけでした。ワイパーも雪で動きが悪いので、フロントガラスに額を付け、とにかくなるべく山側に沿って運転しました。目的地に着くと、前回の知り合いが衣類を数に関係なく引き取ってくれました。そして、前回、帰りの途中に乗り捨てた車にガソリンを入れ帰ってきました。私たちは足でアクセルを踏めないくらい疲れてしまい、ガムテープで固定して運転する状況でした。
そのような状況を警察が分かってくれ、緊急自動車の認定を受け高速道路を使えるようしてくれました、高速道路は、自衛隊と私たちだけで、夜9時に東京を出発し、朝3時ごろに目的の場所について、車の中で朝6時まで仮眠を取り、9時までに物資を渡し歩き、東京に出発。夜7時ごろまでに物資を集め、夜9時に東京を出発という生活が続きました。
若いラビは、いつも元気でしたが、私は疲れ果てて付いていくのがやっとでした。その後、原子力事故が段々ひどくなると、南相馬から北は岩沼まで焼き芋と衣類を配り続けました。そのころ、一般の外人のための公共サービスの職員も大阪や海外に退去してしまいましたし、日本に残っているユダヤ人の相談やアドバイスはラビだけになり、海外からの問い合わせも、ラビとラビの家族だけですることになってしまいました。
同時に困ったことにラビは、宗教裁判に訴えられました。理由は、衝動に駆られ、原子力事故の近くまで行き活動し、ユダヤ人の子供と配偶者の生命まで危うくしているという罪状です。海外から多くの抗議の手紙と激励の手紙がたくさん届きました。その多くは子供と奥さんだけは、日本を脱出させて欲しいとの懇願の内容で航空券の購入費用の振込みもありました。ラビも奥さんも、今は日本を離れることが出来ないと言い、頂いたお金も東北を支援するための活動資金としました。妊娠中の奥さんはその海外からの対応と、資金作りに24時間寝ないで対応するということが続きました。
これが震災当時に我々が行った活動の舞台裏です。そして、2015年2月現在も活動はいまでも続けています。

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