ウォルト・ディズニーという奇跡 | 世界でエンタメ三昧【第55回】

希代の借金王

 20世紀においてエンターテイメント界を作り上げた第一人者といえば、ウォルト・ディズニーをおいて右に出る者はいないでしょう。ディズニー映画、ミッキーマウスを中心としたライセンスビジネス、ファンクラブ、ディズニーランドのパーク事業、現在のエンタメ業界のビジネスモデルの原型は彼が活躍した1930〜50年代にみられます。

 とはいっても、ディズニーという存在が現在我々がイメージする世界的エンタメ企業に育ったのは実はつい最近のこと。ウォルトの生涯はクリエイティブのための苦労で満ちており、スタジオは彼の存命中には実はそこまで大きな規模にはなっていないのです。1年で最初の就職先を辞め、1920年19歳で起業したウォルトは1か月でその1社目から離れ再就職。21年に2社目を起業し10名程度まで伸ばすも翌年には破産宣告。23年に兄のロイと作ったディズニー・ブラザーズ・スタジオで、はじめて事業が継続できるようになります。

 ただしその後も失敗と破産恐怖の連続で、28年に版権・スタッフの大量流出であわや倒産の事態。同年に「ミッキーマウス」でヒットを飛ばしてからは良い時代で、欧州も含めた人気コンテンツの生みの親として世界を賑わし、32年「三匹の子豚」アカデミー賞、37年「白雪姫」が歴史上初の長編アニメとして耳目を集めます。ところが翌38年には自分が建てた家の瑕疵で実母が死亡、その後も「ピノキオ」「ファンタジア」失敗で大赤字、500人以上もの従業員の大半がストライキで動かず、倒産危機のなかを戦争協力映画でなんとか経営を維持した40年代前半。戦後もキャッシュアウトで倒産の危機を迎え、50を過ぎたウォルトが最も熱意を注いだディズニーランドの建設の際も、50年代前半に金策に大いに苦しんだ形跡があります(ただしこうした「経営」はほぼ兄のロイが担当、弟のウォルトは製作だけに集中しお金に無頓着ではあった)。伝記を振り返ると、彼が盤石な体制の上で創造に打ち込めた時代は生涯でほとんどなかったのではないかという印象です。

ライセンスビジネスへの目覚め

 失敗は時にとても大事な成長の肥やしとなります。ディズニーはライセンスビジネスの先駆けでしたが、彼らが版権にセンシティブだったのは28年に「しあわせウサギのオズワルド」(ミッキーの原型にもなったキャラクター)を、配給会社のミンツに奪われた原体験からでした。29年には既にミッキーマウスのための商品ライセンス会社を設立、欧州も含めた海賊版の排除にも乗り出します。1935年には当時付き合っていた大手配給会社のUAから、(まだ公共のTV放映もなかった時代に)テレビ化権を要求され、それを頑として拒んで取引停止にすらしています。

 こんなエピソードがあります。30年代にミッキーマウスが欧州で大人気を博した反面、大量の模造品が生まれ、ディズニーは当時一番大きなメーカーから訴えました。そのメーカーは「なぜ訴えるのか?こんなに皆真似してるじゃないか」。ディズニーの答えは「御社が一番大きく、少しは損害賠償が取れるからです。小さい会社を訴えても訴える費用に見合いません。ではこうしませんか?御社はライセンスを取る。それで一緒に他のメーカーを訴えましょう」。今やライセンスの強固さでは右に出るもののいないディズニー社の著作権ビジネスの盤石さは、この時期に「脅しをかけてくる会社というイメージがつけば個人や中小は模造しなくなる」「ライセンスアウト先に利益をもたせ、その会社から訴える自動巻きの体制を作る」などコストミニマムな監視体制を引いたことからはじまっています。

 また他社の版権獲得という意味でもその息の長さは想像を絶します。今ではミッキーと並ぶ収益レバーとなった「くまのプーさん」はすでに1930年時点で買収。その後も「オズの魔法使い」については37年から交渉し、買収が成立したのは54年。映画『ウォルト・ディズニーの約束』で語られていますが、「メリー・ポピンズ」もまた44年から交渉し、その映画化が許可されたのは60年。権利のみがプロパティともいえるこのビジネスで、キャラクターのブランド力をおよそ100年前からこれだけの熱意を傾けて守り抜いてきたものは、いまのエンタメ業界にも連綿と引き継がれた商慣行でもあります。

誰もがやれない危険な崖を飛び越える

 ウォルトは常に時代の第一人者であり続けました。「アニメなんて8分でいい。長く作ったら飽きられてしまう」という時代に自社リスクで$1.5Mかけて(当時は$5K〜30Kくらいで数分アニメを3週間で1本ずつ作るのが標準、かつ受託型だった)2時間アニメ「白雪姫」を作ったのが34年。世界中から喝さいを受け、その後「トムとジェリー」のようなアニメ長編から新しいキャラが生まれてくるようになりました。

 そもそも20年代のアニメ制作会社の選択自体も非常にリスキーでした。1900〜20年代まではラジオの時代、実写映画の製作という意味でも大手(コロンビア、MGM、パラマウント)が出来たのがそもそも1920年前後。まだ世界の映画のほとんどをパリが作っていた時代、なおかつ東海岸のニューヨークはまだしも、当時のカンザスシティやロサンゼルスなどディズニーの拠点となった西海岸はど田舎の新興地域。ほとんどの映画館もアニメは刺身のつまにもならない扱いで、子供だましに3分間をもたせるようなもの。そんな新興産業に新興地域で制作に乗り出し、事実20年代はほとんど金にならず、他人の食べ残しをもらって食いつないでいた生活レベルでした。

 ライセンスビジネスの会社も20年代に作り、全国800もの劇場を束ねてミッキーマウスのバッチなど販促品を買ってもらい地域でファンクラブを運営してもらっている。まだ英国でTVの実験放送が始まった30年代半ばにはテレビ放送の野望を胸に、実際にテレビ番組を提供したのは1950年になってから。ナッツベリーファームくらいしかない時代にTV局と出版社(自分個人も含め!)から約$1.5Mの出資を集めてパーク建設に乗り出し、最終的には予算の10倍を超える$17Mを賭けて建設を完成させた。パーク建設自体を番組化し、CBS・NBCの2大寡占市場で赤字だったABCをたきつけ、番組放送。その後はフロリダの第二ディズニーランド、スキー場開発、理想都市建設、芸術大学計画などに邁進し、死ぬまでその動きをとめませんでした。ランド建設で巨額のコストにおびえた担当者にウォルトは心配するなとかけた言葉があります。「私は今までに5回も破産している。あと1回増えたところで、どうということはない」

ビジネスサイドの後継者たち

 図1をみると、ウォルトの死の66年は会社収益が丁度1億ドル。ロイの死の71年以降はそれほどヒットを飛ばせず、1980年前後になってもハリウッドの制作会社のなかでは4%と小さなシェアの弱小でした。84年の20億ドル時代にCEOに就任したアイズナーのもとで実は大きく開花したのです。彼の長期政権のなかで80年代は利益率の大幅回復と50億ドルへの成長。96年ABC買収、98年インフォシーク買収などを通じて一エンタメ企業から総合メディアコングロマリットに大きく舵転換し200億ドル時代へ。00年代も止まらぬままピクサー、マーベル買収で400億ドル、10年代にはルーカスフィルムからFOXの事業譲渡までまだ買収攻勢は止まりません。こうしたビジネスドリブンの企業になったのは80年代のアイズナーにはじまる「クリエイティブ企業からエンタメ『ビジネス』企業への羽化」があったからこそ、でしょう。

 企業とは集合体として形成された文化のハコです。創造にカネを惜しまないウォルトと、裏方に徹底しつくしたロイの二人三脚で50年かけて事業のタネを形成した最初の50年。そこで形成されたライセンスビジネスという縦糸の文化に沿って、ビジネスの天才たちが時に個々の利益の最大化のために、時の保身も交えながら、後継していくなかで一喜一憂の映画製作からエンタメ・ビジネスの「帝国」として羽化したのが後半の50年です。成長のサイズとしてはもちろん後半50年に比べようがありませんが、最初の50年というゼロからイチがなければ、誰もが気づいていないこの時代にライセンスからパーク事業まで崖から飛び出すようなリスクテイクがなければ、いまごろ「世界の」エンタメ業界は全然違うものになっていた可能性すらあります。


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中山 淳雄

ブシロードインターナショナル社長​。リクルートスタッフィング、DeNA、​デロイト​を経て、バンダイナムコスタジオでバンクーバー、マレーシアで​新規事業会社設立後、現在​シンガポールにて日本コンテンツの海外展開中。東大社会学修士、McGill大学MBA修了​、早稲田大学MBA非常勤講師​。​著書に”The Third Wave of Japanese Games”(PHP, 2015)、『ヒットの法則が変わった いいモノを作っても、なぜ売れない? 』(PHP、2013)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHP、2012)他。