カナダと日本の架け橋となる人々
カナダと日本の架け橋となる人々
”唯一の外国人落語家、“落語らしい英語落語を届けたい”
桂一門落語家
桂 三輝(サンシャイン)さん
2008年9月、落語界史上初の外国人落語家が誕生した。彼の名は桂三輝(サンシャイン)、6代 桂文枝(前名:桂三枝)を師匠に持つ。
トロント出身の彼は20代の頃に劇作家・作曲家として活躍。彼の書いたミュージカルの中にはカナダ人劇作家作品中最もロングラン公演されたものもある。ある日、古典ギリシャの劇と日本の能楽・歌舞伎には多くの類似点があるという記事を読み、歌舞伎を観てみたいと思いワーキングホリデーで日本へ旅立つ。すぐにモダンでありながら伝統が生きる日本に魅了されたという。
日本滞在5年目、行きつけの横浜にある焼鳥屋のマスターから店で行う落語会に誘われたのが、落語との初めての出会いだった。「提灯などの飾り、三味線の音楽、座布団の上に正座した着物を着た出演者、扇子と手ぬぐいと日本のものが揃っている風景、そして丁寧なあいさつの言葉を聴いた瞬間、“何を言っているかサッパリわからないけど、なんかカッコいい!!”と衝撃を受けました(笑)」
枕(本編に入る前にする話)で名前についての話がされ、本編で寿限無(じゅげむ)の話が始まった。たまたま寿限無の話を知っていた彼は内容を把握、“挨拶に始まり、枕の世間話、本編、そして最後に落ちる”という落語の美しい流れに恋に落ちる。「自分の大好きな古典、コメディー、演劇、和の要素の全てが落語には揃っていて、その時に、“ああ、これまでの人生はこのためだったのだな”と思いました。」
落語の世界に入りたいと思うも、700人以上いる落語家の中、当時外国人は皆無。落語をやっている外国人は多くいるが、師匠のもとで修業し、名前をもらっているプロの落語家はいなかった。そこでアコーディオン漫談を始め、小さな落語会に呼ばれるようになる。楽屋で落語家と接するうちに、落語家になりたいという気持ちが増し上方落語を勉強するために大阪に移動、大阪芸術大学で落語と漫才を修士課程で学ぶ。その時初めて師匠・6代 桂文枝の創作落語を観て感動し、弟子入りを志願。8か月師匠の元へと通い、念願の弟子となる。師匠の元で3年修業を積み、2年前から吉本興業の行う“あなたの街に住みますプロジェクト”で三重県に移り、現在に至る。
彼は2年程前から海外公演も行っている。あるとき“宿題”という師匠の演目のなかに出てくる鶴亀算の亀を、海外用にフラミンゴに変えて上演。英語落語として日本でやった際には大うけだったが、カナダではどん滑りだったという。ならば、と師匠の話のまま、鶴と亀で上演してみると、カナダでも大うけだった。「これは大きな発見でしたね。“落語は落語のまま、400年続いた歴史を変えるのではなく、できるだけ守っていく”、これが大切なのだと感じました。カナダ人のお客さんは私の公演に日本の伝統芸能を観たいと思って訪れるわけで、落語を作り変えた“私の芸”を観に来ているのではないのですからね。」
現在唯一の外国人落語家である彼が目指す“落語”とは一体どんなものだろうか。「私は、今まで演じられたてきた英語落語よりも落語らしい英語落語をやりたいです。日本人が日本語で落語を聴いているような経験を、できるだけカナダの人にも英語で感じてもらいたいですね。以前、上方落語のファンだという方に、“英語落語ではなく、上方落語を観ているみたいだった。英語だったけれど、雰囲気が上方落語で、こんなことができるとは思わなかった。”と言われたときは本当に嬉しく、良い方向に進んでいるなと思いました。」
彼は今年8月末から10月5日までの6週間に渡り、北米ツアーを行う。 公演は計16か所で行われ、ツアー最終日の10月5日にはトロントで凱旋公演を行う。開催場所はQueen駅すぐ近くのWinter Garden Theatre。
親日敏腕弁護士が、日本企業のカナダでの活動をサポートする。
McMillan法律事務所顧問弁護士
John W Craig さん
企業において顧問弁護士の存在は大きいものだ。法的相談を行うということのみならず、他団体からの信頼にも影響するため、優秀な顧問弁護士を有することが、企業経営にとって大きな武器となる。その顧問弁護士として、日本政府機関やトロントで活動する日系企業・団体の多くが絶大の信頼を寄せる弁護士、それがMcMillan法律事務所顧問弁護士を務めるJohn W Craigさんだ。
彼はヨーク大学・Osgood Hall Law School卒業後、法律家・顧問弁護士として、40年に渡って多くの企業に法律的アドバイスを行ってきた。とくに日系企業のカナダへの参入や投資活動への支援を多く行っており、トヨタや三菱、ホンダといった日系多国籍企業から日本政府機関の在トロント日本総領事館まで、多くの名立たる企業・団体が彼の法的アドバイスを求めてくるのだ。また、彼は大規模な多国籍企業だけでなく、オンタリオ州に出店した複数の日本食店も支援している。
「以前、カナダでのビジネス展開のために日本企業のエンジニア一団が日本からカナダを訪れることになったのですが、当時のカナダ政府は一人につき一組の書類提出を義務付けていたため、60~90人分それぞれの書類を用意しなくてはならず、“そんなことはナンセンスだ”と、新しいフォーマット作成してカナダ政府に提案しました。これにより、一つのリストで全員分まとめて書類提出ができるようになりました。これは実用的なシステム構築に成功した一つの例です。」人や物資の移動や文化の違いによるいざこざなど、国をまたげば国内よりもさらに多くの問題が発生してくる。それを法的立場で軽減・解決していく彼の存在は、企業にとって欠かせない。
さらに、彼は日系コミュニティでも大きな役割を果たしている。The Japan Society会長を務め、2000年から日加友好のシンボルとして始まった“桜プロジェクト”の副会長も務めていた。オンタリオ州に日本の桜を3000本植樹するというこのプロジェクトは、昨年9月に最後の30本を植樹して3000本の桜植樹を達成。10年以上の歳月をかけてようやくプロジェクトが終了。長い期間、多くの仲間と同じような心を持ち、様々な困難にあいながらも進んできたことは、彼にとってもとても思い出深いものだったという。「私は日本人と仕事や、何か活動することが好きです。日本人の接し方はとても礼儀正しく、目的を明確に持ちながら物事を進めていく。とても一緒に仕事がしやすいんですよね。」
彼のこれらを代表とする日系コミュニティへの貢献や日系企業に対する支援尽力の功績が評価され、彼は平成23年(2011年)秋の叙勲で、日本政府より旭日中綬章を受章した。「授与者のリストを見てみると、自分の賜った章がClint Eastwood映画監督(“硫黄島からの手紙”製作が理由)と同じ位にあるもので、驚きました。私はこの章をClint Eastwood Awardと勝手に呼んでいます(笑)この章を賜ったことはとても光栄なことですが、このような章をなぜ自分がもらえるのか、もらってよいものなのかと今でも思ってしまいますね。」彼が日本経済、社会に与えてきたものはとても大きい。この謙虚な姿勢は、日本文化に影響されたものなのかもしれない。
学術カンファレンス参加のため、33年前に初めて日本を訪れてから、これまで通算55回も日本に訪れたというJohnさん。クライアントの工場視察や、カンファレンス参加など、仕事で訪れている機会も少なくはないと思うが、やはりこの回数からも彼の日本に対する思い入れや親しみが伺えるだろう。「少し先には、埼玉県にクライアントと工場の視察に行く予定です。また、プライベートでは自転車に乗って四国をまわることも計画しています。四国にはまだ行ったことがないので、楽しみですね。」日本に愛情を持った敏腕弁護士がいるトロント、これは日系企業がトロントに投資する、一つの大きな要因となっているだろう。
日本在住カナダ人クリエイターが作り出すコンテンツが、日本とカナダをより身近なものにする。
映像(ウェブコンテンツ)クリエイター
Micaela Braithwaite さん
ここ最近、“日本大好き、日本在住カナダ美人”の存在がインターネット上で大きな話題となっている。その噂の人物が、バンクーバー出身で現在福岡在住のMicaela Braithwaiteさんだ。彼女はyoutube動画配信やブログなどのウェブコンテンツ制作、テレビ番組出演もなど、幅広いフィールドで活躍しており、彼女のyoutubeチャンネル登録者数は13万人以上Twitterフォロワー数は2万7000人以上という人気クリエイターだ。
彼女が日本に興味を持ち始めたのは学生の頃。J-rockやJ-popが好きな友人の影響で日本の音楽を知り、高校1年生の頃に日本語初級クラスを受講、そして高校2年生の時に半年間、宮崎の高校での交換留学を体験する。「もっと日本語を勉強したい」という強い思いを胸に、高校卒業後にワーキングホリデービザを取得して再び日本に渡る。熊本で1年を過ごし、その後現在の居住地、福岡に移動。日本語学校と音楽専門学校で学び、学校卒業後、現在の所属する吉田正樹事務所と出会い事務所所属クリエイターとして活動、現在に至る。
彼女の存在が広く知れ渡るきっかけとなったのがyoutube動画配信だ。動画投稿を始めたのは本格的に日本での生活を始めた熊本滞在の頃で、もともとは両親に宛てたビデオレターだったという。「日本に住み始めて間もない頃、両親は私のことをとても心配していました。両親は日本を訪れたことがなく、テクノロジーやアニメ、コスプレなどといったテレビを通して培われた外国人が思う日本のイメージしかなかったのです。私は“日本で普通に生活しているよ”と両親に伝えたくて、カメラを持っていろいろなところに行って動画を撮影・編集してyoutubeに投稿し始めました。」
異国の地で生活するカナダ人女性の何気ない日常生活を元にした動画。youtubeでは、彼女が配信している日本のお菓子やファッション、名所などの紹介動画を観ることができる。彼女の英語と日本語を交えたトークにおのおの対訳字幕が添えられており、海外への日本紹介動画として、また英語勉強の教材として、日本人を含め世界中で多くの人々が閲覧している。
また、彼女は2011年よりカナダ観光局での仕事もしており、カナダ各地に渡って動画を撮影・編集し、カナダの魅力を全世界に向けて届けている。今年6月にはTBEX(世界中のトラベルブロガーとスポンサーが集まるイベント)でトロントにも訪れている。「人生で2回目のトロント。仕事を兼ねていろいろな場所を観光したのですが、トロントはとても楽しい街で、いつか住んでみたいですね。」
外国人である彼女が日本で生活をしていれば、時には文化の違いに困惑することもあるだろう。だが、それすらも彼女は自分の糧としていく。「カナダと日本の文化を混ぜながら生きていくということで、自分の世界が大きく広がりました。外国人として大変なこともありますが、その中で頑張って成長していきながら、楽しく毎日を過ごしています。海外に行って“自分はカナダ人だからこれは私と関係ない”と思うことって、すごくもったいないことですよね。新たな体験や考え方を学ぶチャンスを失ってしまいますから。私は日本の文化を尊敬しながら、日本人の話し方やイントネーションもマネするように心掛けています。」この彼女の姿勢に、日本を離れてカナダで生活を送っている読者の多くが共感するのではないだろうか。
今後の彼女の活動は、カナダ観光局の仕事での再度の来加や、BSテレビ番組“わくわく★カナダ”の番組制作を担当することが決まっており、テレビ番組にも積極的に出演していきたいという。そして少し先の将来、“パソコンがあればどこででも仕事ができる”というコンテンツ制作の仕事の強みを活かして、日本とカナダ交互での生活を実現したいと考えていることも明かしてくれた。彼女の架ける日本とカナダを繋ぐ架け橋は、彼女の活躍に比例して今後さらに大きなものへと成長していくだろう。
医療分野で日加交流。医療技術にさらなる発展をもたらす。
脳神経外科医
綿谷 崇史 さん
静岡県立こども病院で脳神経外科 医長を務めている綿谷崇史さん。彼は2010年より約3年、トロントの医療機関で臨床に携わっていた経験を持つ。
2000年、京都大学医学部卒業後、同大学付属病院の脳神経外科で勤務。2004年から一時臨床を離れ、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターにて博士課程研究員として基礎研究に従事する。2008年に渡米し、Harvard Medical Schoolで博士研究員として脳腫瘍の研究を行い、2010年にトロントに移り、Toronto Western Hospital頭蓋底・脳腫瘍臨床専門修練医として臨床に戻る。2011年にはThe Hospital for Sick Children小児脳神経外科に臨床専門修練医として勤務し、2013年に日本帰国、現在の病院で働き始める。
彼が海外で臨床技術を学ぼうと思ったのは技術向上のためだけでなく、手術教育も学びたいという思いがあったからだという。「私は日本の脳神経外科は高度な臨床技術を有していると思いますが、その技術の伝承方法が“見て学べ”、“自分で勉強しろ”といったところが多く、実践トレーニングの仕方が非常に未熟だと思います。それでは成長は本人次第で、途中で諦めてしまう人を多数輩出することになります。本当に優秀な人だけが生き残っていくシステムは、医療においては最終的に患者にとって喜ばしいことだとはいえないと思います。私は手術をはじめとする臨床技術の向上のため、そして同時に北米の手術教育を身をもって学び、日本に持ち帰りたいという思いで海外留学を決意しました。」
彼はトロントでは診療の傍ら、週末は研究室で実験も続けていたという。「臨床と研究の両方を継続するのは非常にタフなことだと思いますが、基礎研究者に任せていたら病気はいつまでたっても治る日が来ません。患者はマウスよりも多くのインスピレーションを与えてくれますし、なによりも実際に悪化していく患者を診察し本人や家族とコミュニケーションをとっている私たちのモチベーションは決して下がることはありません。」
彼がトロントに滞在していた2年の間に、衝撃の事件が起きる。2012年6月4日、街全体に戦慄が走り、今なお多くの人の記憶に残るEaton Centreでの銃乱射事件だ。その事件で凶弾が頭を直撃した少年は、当時彼の勤めていた病院に運ばれてきた。当時主任研究員をしていた彼も、その15分前までEaton Centreにいたというのには背筋が寒くなる。急患の連絡を受け、彼は急いで病院へ。緊急手術となり、彼が処置を行った。
「私は日本で銃創処置なんてしたことがありませんでしたので、教授に指示を仰ぎながら手術しました。奇跡的に患者は状態回復し、後日元気に歩いて帰宅しました。大変な騒ぎでしたが、大変貴重な経験でした。」
上記の事件での経験を含め、彼はトロントで多くのことを学んだ。トロントで培った技術や経験は今の彼に大きく活きているという。「私は現在、小児脳神経外科医として勤務しています。トロントで小児病院に勤務し、そこで学んだ小児脳神経外科、特に小児脳腫瘍手術の技術は現在の業務に直結して役立っています。また、私はトロント大学との共同研究を今なお続けており、トロントに滞在していた頃から指導している大学院生や博士研究員と毎週火曜日にSkypeでビデオカンファレンスを続け、指導を継続しています。脳腫瘍研究には多くのお金と患者が必要ですが、国際共同研究を続けることによってそれを打破することができると信じています。」彼の行う医療分野での交流が、世界の医療技術のさらなる発展へと繋がっていく。
また、手術教育以外にも日本と大きく異なる部分があるという。
「一番違うのは、規模の大きさだと思います。トロントにはスペリオル湖の西端からも飛行機で患者が搬送されてきます。一箇所に患者も医者も設備も集めているので、短期間にハイレベルの医療技術を学ぶにはもってこいの環境ですね。」
時代に合わせた進化を常に追い続ける。
CM・映像ディレクター
フォトグラファー / ムービーカメラマン
杉野 信也 さん
TELUSやTim Hortonsなど、カナダのトップクラスの企業の映像・写真広告を手掛けるSugino Studioの経営者、杉野信也さん。19歳でカナダに移民、ライアーソン大学写真科を卒業したのちヨーク大写真科の講師を勤め、1986年から広告業界で商業写真家として第一線で活躍している。
“Evolve or Die”(『進化するか、死ぬか』)。これはSugino Studioのモットーだ。その言葉通り杉野さんは時代の進化を先読みし、常に新しいものを追い続けている。“スチールの時代はいずれ衰退する”という時代の流れを見て8年前から当時スタジオのシェアが9割以上占めていたスチールから映像へと主体を移行した。するとその3年後には当時たった5%だった映像の割合が95%を占めるようになっていた。
これは自身だけでなく、20名以上の従業員にも杉野さんは“進化”を求め、レクチャーにも熱心に取り組んでいる。アシスタントカメラマンが早く自立できるようにとポートフォリオになる個人の作品創りも積極的にさせたり、進化し続けるカメラやソフトウェアの講習などにも参加できるような社内環境を杉野さんは従業員に提供している。
そんなSugino Studioに6月、3つ目となる新しいスタジオが完成した。そのスタジオには日本の技術が詰まったカメラが一台ある。5月にスタジオに届いたばかりの“MAMBA”。モーションコントロールカメラと呼ばれるこのカメラは、複雑な動きでも精密に記憶させ何度でも同じ動きを撮影でき、更には撮影後のCG加工がかなり効率アップできるすぐれもの。カナダではここSugino Studioが初めての導入となる。既存のモーションコントロールカメラが市場に出ていたが、よりコンパクトで使いやすいものを求めた杉野さんはMAMBAの開発に一から取り組んだ。動きを担うロボットの部分は、産業ロボットで有名な日本の安川電機に依頼。安川電機の技術開発者も、初めてのカメラ用ロボットに興味を抱き杉野さんの依頼に快諾してくれた。
開発から1年、日本の技術が詰まったMAMBAがSugino Studioに到着。MAMBAが導入されてからは仕事の効率が何倍も良くなったそうだ。
「常に新しいことをやると、常にメディアや世間から注目される。この世界で生き抜くためには常に進化し続けないといけない。」と杉野さん。ここカナダの第一線で活躍する杉野さんに“日本人”として考えることはあるか伺った。
「“日本人”として意識して何かをすることは一切ありません。日本の文化、伝統を押し出すことは時にあっても、常にグローバルの意識を持ち続けることが大事。グローバルな気持ちを持ち続けないとこの世界では生きていけません。」
杉野さんの考える次の“進化”は何か。我々も時代の先を見る意識を常に持つと、その答えがわかるかもしれない。
日本語と英語、歌は国境を越えてくれるもの。
Singer / Song Writer
O-mocha
Danielle L Douglas さん
日本人男性とのデュオFull Circleのメンバーであり、O-mochaとしてソロでも歌手活動をするDanielle L Douglasさん。カナダ人の彼女は、日本語歌詞の曲を歌いそして日本の文化や音楽をこよなく愛する。先日開催されたMATSURIでも、O-mochaとしてDundas Squareの舞台でパフォーマンスを繰り広げた。
Danielleさんは中学生の頃に日本のアニメやJ-popなど、日本の現代文化の虜になった。高校生で独学で日本語を勉強し始め、ヨーク大学では日本語のクラスを受講。自身で「昔はオタクだった(笑)」と言うDanielleさん。そんな中、数年前に訪れたアニメイベントでの日本人とカナダ人のHiphopシンガーグループとの出逢いがきっかけで自身も歌うことをスタートする。2007年にそのシンガーグループと友人だったAkiと出逢い、Full Circleを結成。英日の歌詞合わせてこれまでで20曲以上のオリジナル曲を作成した。
日本人から見ても、どことなく日本人のようなシャイでかわいらしい表情を見せるDanielleさん。カナダで出会った日本人や中国人の友人が主催するイベントや、アフリカの子どもたちへのチャリティイベントなど、これまで様々なステージで歌を披露している。
「幼稚園の頃イギリスからカナダに引っ越してきて、アクセントの違いを指摘されることもあったりしてそれがとても恥ずかしく、どんどんシャイな性格になってしまいました。歌を始めてから2〜3年はステージに立つこともとても恥ずかしかったです。今はもちろん大丈夫だけど、先日のMATSURIではあの大きなDundas Squareで歌うということで、久しぶりにとても緊張しました。」
2010年にワーキングホリデーで東京に滞在し、English Cafeやボイストレーニングの講師として勤務した。その時の日本人の生徒にはアメリカの大舞台で歌うことを夢見る子や、英語で日本人のアクセントをなくして歌を歌いたい子など様々で、その子たちの目に見える成長を見てとても嬉しかったそう。
現在は日本で活躍するHiphopシンガーとのコラボ活動を行ったり、ステージに立てる機会があれば積極的に歌手活動を行なっている。
「どこの国でも構わないからいつかデビューするのが夢です。Japanese musicもCanadian musicもどちらも大好きなので、そのどちらとも良い部分を伝えれるような歌が歌っていけたらいいなと思います。」
Danielleさんは現在日本語での歌詞作成にも挑戦している。カナダで日本語歌詞の曲を歌っていると観客のほとんどが歌詞を理解できないことも多い。しかし時々カナダ人の観客が「君の歌最高だったよ!大好きだ!」と言ってくれることもたくさんあるそうで、そんなときはやっぱり音楽は国境を越えるんだなと改めて思えると言う。
Danielleさんがここカナダで、もしくは日本でデビュー果たし大きな舞台でパフォーマンスが見れる日を楽しみにしていたい。
日本語を通して、日本との親善を育む。
トロント大学東アジア学科
日本語プログラム講師
小室リー郁子 さん
トロント大学東アジア学科には日本語プログラムがある。ここでは、初級レベルから中・上級レベルまでの日本語教育が行われており、そこで講師を務めているのが小室リーさんだ。彼女はCAJLE(カナダ日本語教育振興会)の理事、オンタリオ州日本語弁論大会の実行委員も務めており、カナダの日本語教育界において大きな役割を担っている存在だ。
彼女は幼い頃から言語が好きで、大学は外国語大学に入学。元々は英語の教師を目指していたが、学部卒業後に日本語教育の世界に触れて興味を持ち、大学院で日本語学・日本語教育学を学ぶ。1年間日本で日本語教育に携わり、その後来加してトロント大学でTAを経験、のちに講師として採用されて今に至る。
トロント大学では初級クラスに200人前後が在籍、そこから上級になればなるほど人数が減っていくという。“東アジア学科で学位を取りたい”、“ただ日本語に興味がある”、“アニメや音楽をそのまま理解したい”、“大学の卒業単位取得のために”と様々な思いを抱いた生徒たちでクラスが構成されている。「ここ(トロント大学)で勉強する以前からアニメや音楽から日本語の言葉や文化を知っていてスタートする人も多いんです。本当にバックグラウンドは様々で、まったく日本語の知識がゼロの生徒もいれば、簡単な言葉を話せる生徒もいます。レベルが多岐に渡っているということは、私たちにとってチャレンジですよね。」
時代の流れとともに変わるのが言語。教科書や辞書の日本語が実際に使われている言葉よりも古くなってしまうこともあるが、どのように対応しているのだろうか。「授業では、教科書をベースに“こういうケースもある”と、注意点も交えながら教え、実用的に日本語を使えるようにしています。私も最近のドラマや映画を観て言葉や流行りの文化などを知るよう、常にアンテナを張るように心掛けています。言葉が通じる、相手と人間関係を構築できるようになることが大事だと思うので、そのためのものなら何でも提供したいという気持ちですね。」授業には言語だけでなく、生活に密着した文化の話も取り入れられているという。
彼女は外国語大学で様々な言語を学んだというが、多くの言語を知る彼女が思う日本語の魅力とは一体何なのだろうか。「日本語って言語として見た時は、文法など世界の他の言語と比べたときに決して難しい言語ではないのです。ただ、日本語は表記システムがユニークで、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットを全て駆使し、それを使い分ける。文字の上で言葉遊びをできるのが日本語の特徴で、外国の人にとっては大変かもしれないけれど、それが日本語のおもしろさだと思うのですよね。」
「日本語を知ることで、日本人の考え方を知ることにも繋がる。逆に日本のことがわからないと日本語もわからないという部分もある。言語という“道具”を使い、日本を理解してくれる人々が増えることが各国との友好関係に関わっていくと思います。」彼女は今日も教壇に立ち、生徒たちの日本への親善の心を育んでいく。
日本食材を用いて新たな料理を創り出していく。
Lucien Restaurant 料理長
Etienne Lemieux さん
King駅から徒歩5 分、金融街地区内の緑広がる公園前に店を構えるレストラン“Lucien”。独創的で豊かな味わいの料理が楽しめると評判のこの店には、昼夜問わずビジネスマンたちを中心に多くの人々が集まる。そのメニューの中には、日本の素材や調理器具を使用したものもいくつかあり、これらの料理を考案しているのが、同店で料理長を務めるEtienne Lemieuxさんだ。
彼は15歳の頃から料理を嗜んでいたが、本気で料理の道に進みたいと思うようになったのは、22歳の頃にワーキングホリデーで日本を訪れてからだという。「学生の頃から日本語を学んでいてその語学力を向上させたいと思い、ワーキングホリデービザを持って日本へと渡りました。ボランティアで広島にある蕎麦屋、その後に大阪の居酒屋で働いていくうちに、それまで“趣味”であった料理を、真剣に、プロとして学びたいと思うようになりました。」
日本から帰国後にオーストラリアやアメリカ、ヨーロッパのレストランで修業を積み、2年前から現在の職場で腕を揮っている。これまでの各国での修行経験が彼の考案する料理に独創的なセンスを加えているのは間違いない。「いつも何か新しいものを考案したいという気持ちがあって、自分の知っている食材を“この食材、使えないかな?”と試しています。様々な地方の食材を試していて、日本の食材もよく試します。“どこの国の食材だから”ということよりも、一枚のプレートの中で調和する組み合わせを、様々な食材を使って探しているという感じですね。」
Lucienのメニューの中で、日本食材を使った代表的なものが、アーモンド豆腐。自家製の豆乳を使ったデザートで、先日開催されていたSummerliciousメニューにも登場していた人気デザート。その他、これまでタコや牛レバーの炉端焼き、自家製豆乳とオンタリオ地酒“泉”の酒粕を使った“にがりどうふ”、北米人の好みに合わせたたこ焼きなど、数多くの料理が彼の手によって生み出されてきた。「ライスプディングの付け合わせにこしあんとルバーブのシャーベットを添えたこともあります。こういった一見珍しい食材を組み合わせても、バランスが取れていれば互いの味を引き立て合って美味しい料理ができるのです。」
調理場にも、日本製調理器具が広がる。同店のシェフたちは皆日本製の包丁を使って調理を行っている。「日本製の包丁は研ぐのが簡単だし使い勝手も良いので、日本に行く度にみんなから包丁を買ってくるよう頼まれます。」ところてん突きや炭火の炉端焼き器、たこ焼き器といったものがあるローカルレストランはトロントでも稀有だろう。
またEtienneさんの奥さんは日本人だ。“奥さんだったら、美味しいと言うか”ということも考えながらメニューの試作を常に繰り返しているという。日本人の奥さんの存在が彼の料理にもインスピレーションを与え、斬新なアイデアの美味なる料理ができあがるのかもしれない。
自分の体を見つめなおす機会を、布ナプキンを通して提供したい。
ハンドメイドクラフト hidamariブランド 代表
梶原 紫織 さん
TORJA4月号エコ特集でもご紹介した、女性の憂鬱な日の強い味方・布ナプキン。快適な使い心地と無駄なゴミを出さないことから人気を集め、日本でも密かなブームとなっている。この布ナプキンをカナダでも広めたいと、講習会や販売を行っているのが梶原紫織さんだ。
彼女が布ナプキンと出会ったのは、18歳の頃。留学でトロントに滞在中、ベジタリアンフェアでお店を見て回っていたときだったという。「最初は“何これ?”から始まり、布ナプキンだとわかった瞬間に“えぇーーー!!”と仰天してしまいました。今のように可愛らしいものではなく、その“まさに”といった存在感に驚きました(笑)」
その衝撃の出会いから数年、子供が生まれた後に日本で布ナプキンと再会する。布ナプキンの歴史や体への影響、ディスポーザブルについて知っていくことで“布ナプキンとはなんて素晴らしいものだろう”と思うようになり、自身も布ナプキンを使い始めたそうだ。
5年前、再びカナダに戻ってくると、友人とサークル“Hidamari Club”を結成。自宅で子供たちを遊ばせながら、ママ友たちとクラフトやヨガをする活動を始めた。Hidamari Club で布ナプキンの講習会を行おうと資料集めや商品を探してみると、トロントでは2店舗しか布ナプキンを扱っていないことを知る。それも素材や構造に改善の余地があるようなものばかりで、“これだったら、身近にいるセンスの良いママたちだったら喜んで作ってくれるはずだ”と思い、Hidamari Clubで布ナプキンを作るようになった。現在はママ友の一人、浅野プルー純さんが布ナプキンを作り、梶原さんがイベントでブース販売を行っている。
「日本の人たちは江戸時代などの昔、ナプキン類を使っていなかったそうです。こよりで蓋をする程度で、経血を尿などと一緒にトイレで排泄していたのです。着物の所作によって日常的に骨盤が鍛えられ、経血を自分でコントロールすることができたのです。
ですが、現代の生活スタイルでは、骨盤周りが鍛えられずに経血が垂れ流しの状態になってしまっています。ですから、私は布ナプキンを通して、自分の体の感覚を自分でわかるようになるような生活の提案をしたいのです。布ナプキンを使うことで、自分の体のことを見つめ直してもらう機会にしてもらえたら嬉しいですね。」
“hidamari”で取り扱っている布ナプキンには、随所に工夫が凝らされている。素材には日本製の防水布を使用。「この防水布の薄さは、日本ならではの技術が成せる業ですよね。」さらに日本の柄地、特に和柄を使用した可愛らしいデザインが“ブルーデー”と呼ばれる日を楽しく過ごすためのエッセンスとなっている。また、生理用だけでなくおりもの用など様々なタイプのライナーが揃っているのも大きな特徴。
更に布ナプキンは生理・おりもの用としてだけではなく、尿漏れで悩む妊婦さんから、ホルモンバランスが不安定な更年期に差し掛かった方まで幅広い年代の女性に重宝されている優れモノだ。hidamariは、現在JCCCのイベント時でのブース販売が中心。あなたも一度布ナプキンを試してその心地良さを体感してみてはいかがだろうか。
日本料理の精神を、ローカルレストランの厨房で実践、発信していく。
Yours Truly セカンドシェフ
清水 徹也 さん
Ossington×Dundasに位置するレストラン“Yours Truly”。約1年半前にオープンした同店はフランス料理をベースとしたフュージョン料理が話題を呼び、昨年はToronto Lifeが選ぶベストニューオープンレストランに、今年はJoanne Kates’ Top 100 Restaurantsでトロント第2位に選ばれている。この人気店でセカンドシェフを務めているのが清水徹也さんだ。
彼は高校卒業後に日本の割烹居酒屋でアルバイトを始めた。アメリカを訪れた際、友人に日本の家庭料理を披露し好評を得たことをきっかけに“日本でしっかりと日本料理を学んで世界に戻ってこよう”と決意し、日本で調理師専門学校に通い始める。専門学校卒業後に東京の日本料理店で修業を積み、5年後にワーキングホリデーでオーストラリアに渡る。「今でこそ世界的に日本食がブームとなっていますが、当時のオーストラリアにはそういった風潮は全くなく、“食材を活かす”、“キレイに盛り付ける”といった日本の精神がなかなか理解されないことに悔しい気持ちでいっぱいになりました。」
その後日本に帰国し、もともと憧れを持っていたニューヨークでの成功をめざし、北米にいればチャンスがあるだろうとギリホリでカナダに渡り、バンクーバーのローカルのベストレストランで働いたのち某日系居酒屋の新規高級店舗立ち上げに携わり、その後トロントに来る。そして1年前に、現在働いているレストランと出逢う。 「シェフが自分が憧れていた数々の世界有名三ツ星レストランで修業してきたという記事を読み、実際に料理を食べてみてこの店で働きたいと思いました。最初はただ働きで店に入って、実力を認めていただき正式に働き始めることとなりました。」
セカンドシェフは厨房を見渡し、お客さんに料理を提供するまでの流れを作る役目を担う。日本人であることで当初、彼は総勢7名のシェフたちの中でその役割を全うするのに相当苦労したそう。「日本人が上に立つことや日本とカナダのキッチンでのやり方の違いが原因でした。日本では厳しく指示を出して来ましたが、ここでは皆の模範になろうと努力することでだんだんと周囲も変わっていきました。厨房をピカピカに保つことや食材を丁重に扱うなど、日本では当り前のこともこちらでは当り前でないことがあります。そういったことを実践し、その姿を見せることで、みんなが認めてくれるようになったのです。」
彼はメニュー提案も行っており、最近ではコースの料理と料理の間に出される日本でいう八寸盛りのようなスモールディッシュを主に担当している。同店では週に2、3回メニューが変わるため、季節感を盛り込んだり、飾り切りの技法を使ったりなど、日本古来の精神や技術がここでも活かされている。「和食の考え方で作ったら、その料理は“日本料理”になると思うのです。それが一般的になったら良いなと。僕は日本料理だけでなく、真心やおもてなしの精神で美味しいものを作る日本料理の精神も率先して伝えていきたいと思っています。」
日本料理の美しい所作や精神が彼を通して世界へと伝わっていき、食材だけでなく、精神もフュージョンした彼の唱える“日本料理”が世界を満たす日を期待したい。