日系コミュニティ発展の貢献者 山本 宗一郎さん インタビュー

日系社会の更なる発展を願いJCCCに私費20万ドルを寄付
カナダでの成功と社会貢献を経て今後も自ら信じた道を歩み続ける


今からおよそ50年以上前にカナダ・トロントへと移住し、未知の土地で様々な事業を展開、また日系コミュニティの発展にも多大なる貢献をしてきており、慈善事業なども幅広く手掛けてこられた山本宗一郎さん。そして今回は日系社会への感謝と発展の願いを込め、日系文化会館へ私費20万ドルを寄付された。「自分は本当に運が良かった」と繰り返し語る山本さんを、これまで突き動かしてきた〝原動力〟とは一体何であったのか。紆余曲折を経て成功を掴んだ企業家人生や、ここカナダで手にしたご家族やご友人との心豊かな生き方についてお話を伺った。

1966年10月にトロントにいらっしゃったそうですが、その経緯と移住までの道のりについてお聞かせください。

1937年、尼崎市で生まれた私は戦時下で育ち、8歳の時に終戦を迎えました。後に中央大學の精密機械科で勉学に励み、また学生時代には社交ダンスの教師免許を取得し、教室を開いたりもしていました。就職を経て、1964年に妻の順子と出会い、翌年結婚した私達は2年間かけて新婚旅行で世界中を旅しようと計画し、実行したのです。

カナダへ来るまでは、東南アジア、中近東、エジプト、ギリシャなどを回り、トロントに着いた時は出発から13か月ほど経っていました。友人に「どうせカナダに来るならビザを取っておいたほうがいいよ。」と事前に勧められ、永住ビザをオーストリアのウィーンで既に取得していたことや、旅費が足りなくなってきていたことも重なって、カナダで少し働いてお金を貯めた後、また旅行を再開して日本に帰ろうということになりました。

しかしカナダで事業を始めたり、子供ができたりするうちに、カナダが非常に気に入ってしまい、いつしかそのままここに住み続けることを決断しました。それまでの東京での余裕のない生活に比べて、カナダの多種多様な文化とおおらかさ、相手の失敗に対して寛大であるカナダ人の心の優しさが、こちらの心までも豊かにしてくれると感じられたのが移住の決め手でもありました。

日本に関係する様々な会社を経営された企業人生であったとお伺いしましたが、具体的にはどのようにしてこれまでのキャリアを積まれてきたのでしょうか?

日本では大学卒業後にプリンス自動車(後に日産自動車と合併)に就職し、海外サービス技術者として東南アジアや中近東、ヨーロッパを巡歴し働いていました。トロントに来てからは、当時設立間もないCMI社(現在のトヨタ・カナダ社)で働いていたのですが、まだサラリーマンであった1969年春に日本行きの格安チャーター便を飛ばす事業を計画、親しい友人3人に手伝ってもらってNorth West航空と契約しました。事業は成功を収めましたが、3年後にカナダ政府がその種のチャーター便を禁止してしまい、残念ながら事業は終わりを迎えました。しかし、将来の企業の為の資本の蓄積も出来て、これこそが私の企業人生の始まりでした。

1970年には、日本の投資家の支援も受けながらJAPAMCO社を友人と設立し、「日本の味」、「富士」、「太鼓寿司」と3軒の日本料理店、土産物店「メイプル・ギフト」、旅行社「Tokyo Tours」、商社「富士貿易」等を開業、又、サンフランシスコには「メイプル毛皮店」、ロサンゼルスには「カキヌマUSA社」も経営していました。当時は日本に行けばビジネスの話がたくさんあり、面白いと思う話はどんどんと実現化させていきました。自分はそもそも技術者で機械専門であったにもかかわらず、色々と着手しすぎていたのではないかと今となっては反省の気持ちもありますが、おそらく何に対しても楽観主義だったのだろうと思います。

2002年には「Most Innovative Company」としてマーカム市商工会から表彰された

色々な事業を拡大されていく中、その後はそれらの会社を少しずつ売却されていったとお伺いしましたが、どのような理由でその決断に至ったのでしょうか?

二人の息子たちがだんだんと大きくなっていくにつれ、自分のビジネスも忙しくなり、各地を飛び回るような生活が続いたがために、自分の子供達と遊んだりする親子の営みの時間がなくなってしまったのです。ある時、夜中に急にベッドから飛び起きて、「こんな人生は自分が望んでいたものとは違う。どうしよう。」と、ハッとしたのです。すぐに妻にも相談しました。子供達のことだけではなく、技術者である自分に合った事業をしたい思いも強くありましたので、1977年頃に機械輸出商社を除く全てを売却或いは譲渡することを決意したのです。

また1980年には環境関連機器の製造販売を行うUNIRAM株式会社をマーカム市に新たに設立し、1987年に画期的な塗装ガン自動洗浄装置を開発、国際特許を取得しました。この装置の出現で北米、欧州等では塗装ガン洗浄にはこの装置を必ず使う様にと法律が改正され、商品は生産が追いつかないほど売れるようになり、結果的にはまたもや幸運に恵まれることとなりました。

その後も、数多くの新製品を開発すると共に、1995年頃から、中国広東省に製造工場を、また米国バッファロー市と千葉市に、それぞれ販売会社を設立して販売網を世界に広げ、今日に至っています。2002年には、マーカム市商工会から最も独創的(Innovative)な会社として表彰されました。

トロントではご自身の事業だけではなく、新企会の創立・運営にも携わり、カナダでビジネスをしたい人々のためにも大きく貢献されてきました。

当時日本からカナダに着いたばかりの人々は皆、能力や資産に関係なく、何かビジネスをやりたいというという熱意や夢を持ってカナダに来ていましたから、そういう人たちが集まって、一緒に助け合える場所を作ろうと、最初は8人ほどが集まって設立しました。その頃は日本の大学卒業資格を持っていても、その資格がカナダ社会では認められないなど、移住者がカナダで事業を始めるにおいて現地制度が整っていない部分も多々ありましたので、日本での学歴や資格をこちらでも認めてもらえるような体制に変革できるよう、各協会へ働きかけました。

私はこちらに来てから、日本人で得をした経験がたくさんありましたが、それは今までカナダで生活されてきた先代の日系人の皆様のおかげなのだと思っています。

また、自民党の支部組織をトロントで設立されたというお話もお伺いしました。

以前から自民党に何人か知己の議員がいた為、1986年に来加された竹下登首相の依頼により、私は自民党の支部組織をトロントに設立、総領事館の協力も得て、以降当地に来られた多くの自民党関係者と親交の機会にも恵まれることとなりました。

カナダに移住され、ご自身のビジネスやコミュニティ貢献も非常に充実したものだったと思いますが、一方でご家庭に関するもの、カナダでの教育や子育て環境などについては、どのように感じられていましたか?

日本の教育環境と比べて、もっと自由に伸び伸び子供を育てようという気風と、いろんな国の人が住んでいるので「人はみんな違う」という意識がベースにある上で教育しているのが非常に良いと感じました。宗教が違い、言葉が違っていてもお互いに理解がありますし、生きる上での根本的対人感覚として、「人はみんな違う」ということを基礎に置くことはとても大切だと思っています。あとは英語が習得できたことにより、世界中の人々とのコミュニケーションの対象が広がったことは子供達の将来においても良かったと思います。

80歳を迎えられた今、人生のパートナーである奥様とのこれまでの道のりや、カナダ・トロントに移住されてからの生活はいかがでしたか?

海外に住んでいると必然的に、日本にいる時よりも夫婦が協力せざるをえない場面が多いと思うのです。私達二人は性格こそ違えど、喧嘩をするということはあまりなく、いつも互いに相談しながら一つずつ乗り越えてきたように思います。彼女は直感型、私は理論的に考える性格、真逆にも見えますが、結果的に見ると非常にバランスが良かったです。

海外で生活するにあたり運が良かったのは、彼女は文部省の公式通訳資格を持ちクライスラーで社長秘書を務めていましたし、私もESSに所属して英語を学んでいたりと、二人とも英語ではあまり不自由はしなかったことですね。順子は軌道に乗っていた機械輸出商社の経営を長年担当してくれ、またUNIRAM社の方も、副社長として私を支えてくれています。そしてJapanese Social Servicesの理事も務める妻ですが、一生懸命、一つの目的に向かっている姿はとても素敵ですし、人生の中でそのように熱中できるものがあるというのは素晴らしいことだと思います。

また、忘れがたい思い出は、1989年1月に昭和天皇が崩御され、2月に行われた大喪の礼にカナダ東部の日系人代表として招待され、その折、御所で催されたTEA PARTYで、天皇家の皆様とゆっくりお話できたことです。

これまでもご自身で基金を設立されるに始まり、多くの慈善活動を行ってきた山本さんですが、今年日系文化会館へ20万ドルのご寄付をされた、そのきっかけは何だったのでしょうか?

私は今、80年余りの自分の人生を振り返ってみて、非常に運が良かったのだと思っています。カナダに来てからは特に、困った時はいつもいろんな人が助けてくれましたし、そうやって沢山の人に支えられてきて、自分だけでこの人生をエンジョイするのはおこがましいのではないか、もっと色々な人助けを自分もしたいと思うようになったのです。そうした思いで、インドのチェンナイに身寄りのない少女たちを育てるための孤児院の設立と経営支援を行ったり、ネパールのポカラという場所では心身障害者用の学校の建立にも参加し、また東京では数回チャリティーコンサートを開くなどをしてきました。また、JSSを始め数々の団体にも寄付を行ってきました。

また、現地の慈善事業活動に参加したいという思いが強くなっていた2000年春に、夫婦でマーカム市のロータリー・クラブに加入し、2014年には会長に選出されました。主として海外の慈善活動を担当し今までやってきましたが、その活動を通して、日本を含め、世界の多くの素晴らしいロータアン達と知り合えたのは大きな喜びでした。

そして今度は、長年日本人としてこの地に住んできているので、この地元のために役に立てるような慈善事業をしたいと思ったのが、今回の寄付のきっかけとなりました。これからも、出来るだけ続けて行きたいと思っています。

それでは、これからの人生の展望などを教えてください。

妻と二人でもっと自由に旅行をしてみたいですね。社交ダンスやゴルフなど自分の趣味や、絵や音楽など二人でできる共通の趣味を深めて楽しみたいとも考えています。自分が充実していると、納得できる人生をこれからも歩んでいきたいと思います。

現在少しずつこちらで起業したりする若者やカナダに住みたいという新移民と呼ばれている方も増えています。カナダで様々な経験を積まれてきた山本さんから、そんな皆様へのメッセージをお願いいたします。

現在は確かに海外進出する日本人は増えてきていますが、東南アジアなど発展途上国などに進出する人々の勢いに比べれば、北米は社会エネルギーが成熟してしまっているためなのか、日本人一個人が北米への企業進出を叶えるというのは、正直なところ少々厳しい時代になっているように感じます。

ですが、自分が持っている能力や資本に加え「なぜ自分がそのビジネスをやるべきなのか」というような必然性が感じられるビジネスであれば、リスクはつきものだったとしても思い切って飛び込んでみていただきたいですね。そのためにもまずは自分の指標となるものをしっかりと持ち、実際に数字を出して企業計画書を考えてみるなど、ロジカルな視点で自分の夢や目標と向き合うことも大切です。私も心から応援しています。

130名以上と一緒に傘寿をJCCCで盛大にお祝い
山本宗一郎さん バースデーパーティー

8月6日、山本宗一郎さんのバースデーパーティーが日系文化会館小林ホールにて催され、親族、友人、会社関係者等、およそ130名もの来場客がお祝いに駆けつけた。今回のパーティーは司会役の橋本圭さんによって進行され、はじめにハワード・ワイザーさんによる乾杯の挨拶が行われた後、それぞれのテーブルには石井国男料理長による豪華なディナーのフルコースが振る舞われた。

そして、バースデーソングはピアニストであるジーン・ディノーヴィさんの生伴奏で観客たちが皆揃って歌い、山本さんは目の前に運ばれた大きなケーキのロウソクたちを一気に吹き消し、ケーキカットも行われた。その後の友人・親族によるスピーチにはゴード・マッケイさん、シド池田さん、松本ジェームス真一郎さん、そして山本さんの次男である山本宏治さんが登壇。それぞれ山本さんとのストーリーを交えながら祝辞を述べた。


そうして迎えたお楽しみのエンターテイメントでは、この日のために結成された三匹のてんとう虫のサンバチームにより、名曲「てんとう虫のサンバ」の替え歌披露を皮切りに、バイオリンの演奏、よさこいダンスやマジックショー、サックスの演奏が行われ会場を盛り上げた。最後には山本さんご本人、そして奥様の山本順子さんより、来場客へと謝辞が述べられた。また山本さんより日系文化会館へ20万ドルの寄付金贈呈式もとり行われ、ゲーリー川口JCCC理事長は山本さんへ感謝の意を表した。まるでトロントへ来ることが必然であったかのような山本さんのこれまでの人生。そんな山本さんの人柄と同じく、人々の優しさが溢れ、終始笑顔の絶えない素晴らしいバースデーパーティーとなった。