カナダ・日本・世界を見つめる8人組 #41

自分の呼ばれ方を自分で選べるということ

 

by 広瀬直子

つい最近、トロント、ダウンタウンのクリニックに行ったときのこと。私の患者情報を入力していた受付の年配白人女性が、名前のスペルを聞いたあとに、こう言った。
「Mrs.、Ms.、Miss、無称号とどれにします?」
「私結婚してるからMissじゃないしMs.でお願いします」
「あら、別にMiss.が好きならそれでもいいのよ」
へーっ?
が、確かに、よく考えてみると、彼女の意見には一理ある。
そう、カナダでは結婚という白黒のはっきりしていそうな制度に、大きなグレーゾーンがあるのだ。まず、事実婚が法的には婚姻扱いされることが多いので、本人たちは「同棲しているだけ」のつもりでも、一定期間が過ぎれば、例えばパートナーが亡くなったら遺族年金を受給する権利ができるなど、法的に配偶者扱いされる。さらに同性婚が合法である。つまり、「正式な結婚」というものはしていなくても、レズビアンの人が同性で同棲し(同姓であることもありえる。日本語の同音異義語はすごい)、性的関係があり、「婚姻」状態にあるとみなされるというケースがある。その女性に、「Mrs.」、「Ms.」、「Miss」、無称号から何でも選んでいいですよ、というのは確かに納得がいく。
明らかに「結婚」している人がわざわざMissを選ぶことや、明らかに独身の人があえてMrs.を選ぶことはほとんどないだろう。しかし、要約するとこういうことだ。カナダでは「結婚」という定義があいまいな昨今、称号は自分で適していると思うものを選んでいいし、なくてもいい―。男性には「Mr.」ひとつしかないのに、女性だけが未婚か既婚かで称号を変えるのは差別的だという主張などを経て、「Mrs.」でも「Miss」でもない「Ms.」を正式に用いることが、70年代に主要英語圏の政府で許可され始めた。しかし、今のカナダの状況を見ていると、なんだか「Mrs.」、「Miss」、「Ms.」にこだわることさえ、ばかばかしく思えてくる。カナダは夫婦間の同姓、別姓のチョイスについてもリベラルだ。デフォルトが別姓である。例えば私の住むオンタリオ州は、結婚後、なんの手続きもしなければ別姓のままだ。よって同州で結婚し、何の手続きもしなかったドイツ人の夫と私は二人とも元の名前のままだ。しかし、私たちがどちらかの名字を名乗ろうとある日決めたなら、決めた名字を運転免許証や健康保険証などの証明書類で使い始めたり、二人の旧姓をハイフンでつなげた名字にすることもできる。
このような証明書類上の名前は「法的な名前」(Legal Name)ではなく「公式の名乗り (to assume a surname)」のようなものと見なされる。

▲オンタリオ州の婚姻証明書類。旧姓しか書く欄はない。日本の戸籍にあたるものがなく、出生、婚姻、離婚、死亡証明書がそれぞれ別に発行される。

▲オンタリオ州の婚姻証明書類。旧姓しか書く欄はない。日本の戸籍にあたるものがなく、出生、婚姻、離婚、死亡証明書がそれぞれ別に発行される。

Legal Nameとは男女ともに出生時の名前であり、これも変えるにはより複雑な手続きが必要だ。ほとんどのカップルが、Legal Nameの変更はしない。私が結婚してから、夫の姓を名乗りますか?と初めて聞かれたのは、婚姻届を出した日本の領事館である。日本の政府も国際結婚の場合は同姓を強要しない。なので私の答えは「いいえ」。二度目に夫の名前を使うかと聞かれたのも日本政府で、数年前、日本のパスポートを日本で更新したときだった。領事館に「夫の姓を名乗らない」と言ったので、日本の戸籍でも私の名前はそのまま「広瀬直子」だが、婚姻届によって夫の名前が載っているので、パスポートに記載することが可能なんだそうである。今のところ、夫の名前がパスポートにないからといって特に不便はないので、これも「けっこうです」と言った。称号や名前は便宜的、形式的なもの。とは言っても、昔の女の人は「Mrs.」と「Miss」しか選べなかったり、江戸時代に平民が名字を許されなかったり、権利や自由の度合いを象徴してもいる。私は、カナダで21世紀に非日本人と結婚したために、一度も名前を変える必要がないままここまで来た。43歳、既婚女性で、生まれ育った国とは別の国に住んでいながら(そのおかげでもあるが)、誕生時に与えられた名前を今もそのまま公私に使えていることは、私の持っている権利と自由が象徴されているようで、ある意味で貴重に思えてきた昨今である。

本記事のオリジナルは、2012年7月にwww.thegroupofeight.comに掲載されたものです。

今月の著書 広瀬直子
京都生まれ。ライター、翻訳者。トロントで翻訳・語学サービス会社 KAN Communications Inc. を共同経営。カナダの公認翻訳者資格を保有。トロント大学の継続学習スクールで翻訳の講師を務めた経験をもつ。著書に『35歳からの「英語やり直し」勉強法』(日本実業出版)『日本のことを1 分間英語で話してみる』(KADOKAWA)。など。航空会社の機内誌、語学誌、英文の雑誌などに語学、旅行、文化関連記事を執筆。同志社女子大学卒(英文学)。トロント大学院修士課程修了(比較文学)。

The Group of 8
2011年夏、カナダ在住の翻訳家や通訳、活動家、物書き、研究家、学生などの有志が集まり、それぞれの分野で築き上げてきた仕事や研究、日常について語り合ったのがG8の会の発足のきっかけとなり、月に2回ほどカナダ・日本・世界についてのコラムを発信している。
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