アイドルエコノミー | 世界でエンタメ三昧【第43回】
2010年代、アイドル経済大活況
流行りすたりは現在の社会における抑圧と表裏の関係にあります。最近、ヤンキーがモテなくなってきているという話を聞きます。モテるのは普通の頭のよい子。学校という公的権威に対して逆らってタバコ・バイク・規則外制服といった反権威の行動を振りかざすことよりも、普通に学校にいって勉強ができる「いい子」がモテるようになったと。これはどういうことかというと、「親を含めた権威性あるものが威圧的でなくなった」ことの反作用でもあります。つまり親が厳しい時代は心理的に抑圧されており、そこの垣根を飛び越えるヤンキーにあこがれがあったけど、親が厳しくもなく良き理解者になったとき、反発の必要性がなくなる、ということ。補導を受ける青少年の比率は1983年と、2000年代前半をピークとして、この10数年急落しており、2016年遂に戦後のミニマムの数字を下回りました。いわゆる「不良」の数が戦後最も少なくなっていると思われるのが現在です。
今回のテーマは「アイドル」。この不良のロジックはアイドルにも適用できます。そもそもかわいい・癒し系といったアイドルは不況期の産物であり、好景気にはグラビア・レースクイーンといったセクシー系が好まれると言われます(『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』)。その変化を時代とともにたどると、映画俳優からきたスターとしての美空ひばりや吉永小百合の50-60年代、TVの躍進とともにいわゆる理想形のアイドルの型ができた新三人娘・花の中三トリオの70年代。80年代は巨乳アイドルなど性的な部分が許容され、より人間性に近づいてくる松田聖子や花の82年組の時代。80年代後半からレコード大賞とビジュアルで売ってきた時代から、CM・グラビアといったアイドルのタレント性にフォーカスした時代になり、(87-93年のアイドル氷河期レースクイーン時代を経て)モーニング娘以降はよりリアルな人間性に近づけたライブ感やドキュメンタリー感を伴い、AKB48でアイドルとの成長物語そのものにユーザーが巻き込むアイドルキャラクター化に遷移します。そしていま2010年代はTVとは違う形でゲームとコンサートが生み出す新しい二次元アイドルが大活況の時代にあります。
2016年の「コンテンツファン消費行動調査」で支出喚起力ランキングをみると1位嵐(734億円)に次いで2位「ラブライブ!」(439億円)、4位「アイドルマスターシリーズ」341億円とジャニーズとアイドルゲームコンテンツが7位のディズニーや8位のガンダム、10位のドラクエなどを押しのけて日本のトップコンテンツになっています。AKB48も乃木坂46もグループのなかで各人のキャラクターと成長が売りになるように、ラブライブ!もアイドルマスターも二次元キャラクターの特徴とその成長が売りになっています。三次元が二次元に近づいているとも言えます。
二次元アイドルが育つ土壌
なぜアイドルが流行るのでしょうか。一つには「欲情の代替消費」という側面があります。戦後の日本の性風俗はストリップ(50年代)、エロ映画(60年代)、トルコ風呂(70年代)、アダルトビデオ(80年代)、ヘアヌード・援交(90年代)とトレンドが変化しています。とくに80-90年代のアダルトビデオの時代は「性の民主化」ともいわれ、いわゆる異性の裸に対してモテ・非モテにかかわらずだれもが平等にアクセスできる時代に入ります。性に素人がいなくなり、一般女性がプロ化した結果、人々がアイドルとして崇めるのはそこから対極にあるものになっていきます。幻想の産物としてのアイドル。その延長線上で90年代のPCゲームからはじまり、二次元のアニメキャラ、という決して穢れようのない存在が最終的に「アイドル」として祭り上げられるようになります。
皆、違和感があるのではないでしょうか?30代を中心とした客層が10代後半のアイドルに殺到する。中年男性はAKB48やももクロへ、中年女性はジャニーズへ。最近のアジアではアイドルは人である必要すらなく、VRでのヴァーチャルアイドルに1万人が集まったといった話もあります。色めき立つ群衆に冷ややかな目線を投げる人も多いかとは思いますが、文化とは概してこうしたもの。年輪のように熟成された趣味趣向とは、ときに極端な方向にだって触れることがあります。
例えば戦国時代。織田信長から徳川家康から少年男色が非常に一般化していた時代。なぜか一人だけ資料をひっくり返しても一切こうした部分が出てこない著名人がいます。豊臣秀吉です。彼は農民であったがゆえに、こうした「文化人の趣味趣向」を幼少期に浴びる経験がなく、出世後にそうした世界に入っても男色文化そのものが呑み込めない趣向に育ってしまっていました。彼は当時の感覚からすれば「無粋な非文化人」とされたことでしょう。その時代その時代の流行物は、時代や文脈が異なる階層の人間からは理解しがたい。それそのものに人間の生理的な欲求を満たす必然性や結びつきがないケースも多いからです。
つまり文化とは自分の準拠集団、身近にいる周囲の趣味嗜好に触れることによって(特に感受性豊かな10代など若い間が顕著ですが)「文化」として成熟させていくものなのです。アイドル趣向もまた、70-90年代のTVアイドルから育ち、00-10年代のキャラクター・ゲーム文化と相まって、「二次元キャラのアイドル育成物語」自体を人々が消費できるところまで文化レベルが高まった証左だと思われます。
二次元アイドルへの「萌え」が生み出す未来
そしてアイドル文化が昇華していった結果として「萌え」に至ります。それは直接的な性的対象ではなく、憧れの対象への同化欲望に近いです。萌えによる対象への過度の同一化は、むしろ性欲を減退させます。人は憧れ敬うものを性的対象とはしにくい。そのため、アイドル文化とは非生殖社会への進行も意味します。これは美食が行き過ぎたときに、フォアグラを食べて肝硬変になったり、どんどん非健康的だが挑戦的な趣味嗜好にいくのと似ています。文化は生理的なものから始まるものが多いですが、それが成熟化していくとだんだんと生理的なものから装飾的・様式的なものになっていくものです。
文化が高度になっていくことは必ずしもその生理的な目的にはかないません。本来は相手に近づき、許容されて、生殖にいたるための「自分と相手の恋愛世界」こそが人の求めるものであったはずが、「萌え」になってくると自分という存在は捨ておかれます。オタクも腐女子も、(最近は「典型的な」人は少なくなり、非常にカジュアル化しているものの)「(恋愛という穢れなきものから隔絶された)相手だけの世界」を求める傾向にあります。それはハーレムでもなんでもなく、自分が今存在している社会を忘れさせてくれるものであり、ひいては自分自身の存在すらも忘れさせてくれるものです。
人によってはそれを「逃避」と呼ぶのかもしれません。でもその場自体を好ましいと趣味趣向を共有する同好の士からは、明確な承認が得られます。そこにも新しい社会が存在し、同様に社会におけるステータスを獲得するための闘いはあるのです。
これもまた面白い違いですが、AKB48のような「クラスにいそうなちょっとかわいい子」というコンセプトが受けるのは日本を中心に、あとイタリアなどヨーロッパの幾つかの国くらいで、米国や中国・韓国のアイドルは容姿・踊り・パフォーマンスすべてにプロフェッショナルを求めます。歌がうまくないアイドルがそれらの国にはいないのです。未熟なものを愛でる、その成長物語に伴奏する、ということが消費活動に発展しているのは、日本特有のものであり、その歴史文化的な背景というのもまた追って追求してみたい話ではあります。
中山 淳雄
ブシロードインターナショナル社長。リクルートスタッフィング、DeNA、デロイトを経て、バンダイナムコスタジオでバンクーバー、マレーシアで新規事業会社設立後、現在シンガポールにて日本コンテンツの海外展開中。東大社会学修士、McGill大学MBA修了、早稲田大学MBA非常勤講師。著書に”The Third Wave of Japanese Games”(PHP, 2015)、『ヒットの法則が変わった いいモノを作っても、なぜ売れない? 』(PHP、2013)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHP、2012)他。