イタリア(14) シエナ(Siena)-3― マリナさんとミセリコルデイア|紀行家 石原牧子の思い切って『旅』第39回
写真のワークショップで私の被写体となったマリナさんと一緒に、彼女の職場、慈善組織ミゼリコルデイア(Misericordia)(1月号記)の館内を歩いた。若手のスタッフが生まれる前から彼女はここでボランティアをしているので会う人は皆敬意を込めて彼女に挨拶する。リタイヤしてからこの施設で働いている副所長の部屋に行ったとき、彼はミゼリコルデイアの墓地がヨーロッパを代表するお墓リストに正式に入ったと嬉しそうに話していた。証明書まで見せられては行かないわけにはいかない。
ミゼリコルデイアの小さな博物館には昔の救急担架や馬車が陳列されている。それを全部修理して展示したのはマリナさんと同じ80歳代の同僚、ベニトさん。2人の名前は歴代の貢献者と一緒に石に刻まれているから凄い。ますますやる気が出るというもの。言い換えれば死ぬまで辞められないのではないか。亡くなってから名前を記念に刻むどこかの国とはまるで違う。館内のキッチンでスパゲッティを一緒に食べた。イタリア人はバールでエスプレッソを飲むのが日常なのでここのランチは水だけ。食後のコーヒーはない。食べ終わった頃、続々と救急隊員がランチに戻ってきた。皆マリナさんに声をかけてくる。
マリナさんの元で働くボランテイアの女性は皆シニアだ。ボタン付け、繕い、アイロン掛けをしながら楽しそうに会話をしている。困っている家庭に配られる衣類の寄付もここに持ち込まれる。そうだ私もカナダで買ったけど似合わないブラウスがあるからそれを寄付しよう、と翌日マリナさんに持って行った。すると「あら、私でも着られるじゃないの」新品ではないので失礼に当たると気遣ったが、意外と彼女がサッパリ派だったので安心した。このプロジェクトで彼女が私の被写体になる人だと前以てわかっていればカナダからプレゼントを用意していのだが。
ベニトさんの運転する車でミセリコルデイアの墓地へみんなで出かけた。市内からだいぶ離れていてあたり一面の緑地はトスカーナの丘を思い出す。ここに何千もの墓石が壁にはめ込まれている。マリナさんとベニトさんの両親もここに安置されている。イタリアの国土面責は日本より少し狭いのにこれほど広い敷地が墓地として存在できるのが不思議だ。人口密度から考えれば日本は1㎢あたり335人、イタリアは200人とイタリアが有利。東京都だけに絞ると6000人という大変な人口密度だ。だから日本の方が面責は多少広いと言えども広大な墓地は日本では所詮無理な話だ。ミゼリコルデイアの副所長ご自慢の墓地に立っていると小国イタリアが大きく見えてくる。
マリナさんと2人でカンポ広場(il Campo)(1月号記)に繰り出した。シエナのバンド演奏がすでに始まっている。イタリアの国歌をちょっと口ずさんでみた。すると彼女は意外にも「それはイタリアの歌でしょ。ここはシエナだからそれは歌わないのよ」という驚きの返事。イタリア人という意識よりもパリオで象徴されるシエナのコントラーダ(Contrada 17の地区)のメンバーであることがセルフ・アイデンティティーに繋がっている。彼女の静かな物腰の中にも歴史的な背景(12月号記)のせいか シエナ市民としてのプライドと情熱は想像以上のものがある。
彼女のドキュメントを終え、セミナーの最後の日に私たちの作品のプレゼンテーションが行われた。被写体に選ばれた地元の人たちも家族や職場の仲間と出席した。ミゼリコルデイアの若い所長さんも来てくれた。シエナの市長さんの挨拶のあとナショナル・ジオグラフィックの写真家講師やセミナーの企画関係者ら出席者全員と楽しい交流で盛り上がり、五週間の私のイタリア滞在の最後を飾るにふさわしい一夜となった。この日私はずっとマリナさんのコントラーダのシンボル、象のスカーフを首に巻いていた。マリナさんが記念にくれたコントラーダの旗を持った人形は丁寧に梱包されいよいよ私と一緒に海を渡る。
石原牧子
オンタリオ州政府機関でITマネジャーを経て独立。テレビカメラマン、映像作家、コラムライターとして活動。代表作にColonel’s Daughter(CBC Radio)、Generations(OMNITV)、The Last Chapter(TVF グランプリ・最優秀賞受賞)、写真個展『偶然と必然の間』東京、雑誌ビッツ『サンドウイッチのなかみ』。3.11震災ドキュメント“『長面』きえた故郷”は全国巡回記念DVDを2018年にリリース。PPOC正会員、日本FP協会会員。 makiko@makikoishiharaphotography.com