東京の田舎 ―「夕焼け小焼け」の里へ|紀行家 石原牧子の思い切って『旅』第58回
令和につづく『夕焼小焼』
夕方になると今でも近所の小学校の校庭からこのメロディーが流れる。自然に私の口が歌詞をなぞる。
『夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る。お手々つないで皆帰ろう。烏と一緒に帰りましょう』
小学校の教師だった中村雨紅(本名、高井宮吉1897-1972)が帰郷した際、山里の夕陽に感動して書いた詩だ。草川信が大正12年(1923年)に曲をつけ、童謡として後世に伝わっている。
JR中央線の高尾駅から西東京バスで陣馬街道を走ると「夕焼け小焼け」の里に入る。雨紅の故郷、東京都八王子市上恩方(かみおんがた)では今も高井家が宮尾神社を守り陣場街道から見える高井家の墓は小高い森の中にあり、宮司(ぐうじ)の次男だった雨紅もここに眠る。12世紀に創建されたと言われる歴史ある宮尾神社の拝殿近くには雨紅の実家趾があり、そこに彼の筆跡で『夕焼小焼』の立派な歌碑が建っている。木々が鬱蒼と茂り神秘な様相を放つ森は雨紅のご先祖さまが木々の中にひっそりと宿っているかのよう。
現在の宮司宅(宮尾神社看板が立つ)は陣馬街道沿いにある。摘んだばかりのみずみずしい茗荷が小さなテーブルに置いてあった。家人が摘んだものか、一袋百円。
昭和の郵便局、今も健在
宮尾神社看板の西側に洋館風でレトロな木造の上恩方郵便局がある。切妻屋根や菱形の陳飾り、正面の縦長の窓が洋風さをかもしだす。あわい緑のペンキが印象的な昭和13年の建物だ。取り壊わされることなく今日までメンテされてきた戦前の遺物に敬礼。雨紅も幾度もこの郵便局を利用したに違いない。
郵便局の東側には口留番所(くちどめばんしょ)跡がある。江戸時代の陣馬街道は上恩方名産の炭の運搬道でもあったそうな。さらに甲州街道の裏街道としても使用されていて口留番所はここを通る旅人や荷物を取り締まったと言われる。建物は残っていないが石碑がある。
『鐘がなる~♪』の鐘はどこに?
神社には鐘楼がない。雨紅が聞いた「お寺の鐘」はどの寺のものか。界隈に鐘楼のある寺は3つあるがその中で一番有力と言われるのが禅宗の興慶寺の鐘。「狐塚」バス停からゆっくり20分かけて登ると山門に着く。宮尾神社より標高は高い。斜面には部落を見下ろす墓地が広がり、訪れる人とそこに眠る魂に安らぎを与えてくれそうだ。鐘楼は寺の境内からさらに100メートルほど登った森の中にあった。ここから打たれる鐘の音は眼下の境内を超え、上恩方全域に響き渡るであろう。叩いてみたい気持ちを抑える私。
ところで陣馬街道を走る西東京バスは1時間に一本。「宮の下」バス停から西は手を挙げれば止まってくれるとのこと。安心して私は二つのバス停「夕焼小焼」と「狐塚」の間を寄り道しながら日が暮れるまで歩いた。
遊べる田舎
宮尾神社登り口のはす向かいには「夕やけ小やけふれあいの里」というのがある。ここはキャンプ場も備えた立ち寄り施設。静かな田舎のたたずまいの中で、小さい子連れの家族がたくさん中から出てきた。遊び疲れた子供たちはぐったりとして親に抱かれたりカートのなかで眠ったまま引っ張られたり。施設には土産物や農産物直売があり、トイレもある。
「狐塚」までの街道は曲がりくねった北浅川に沿っていて、時折民家の路地奥に入ってみると面白い光景に出逢う。都心ではもうみられない立派な竹藪、伝統的な黒々とした木材の格子戸と張り替えられたグレーのモダンな屋根材との美しい調和、雑木のように自然に育つ百日紅やムクゲの樹木、そして早々と秋を告げるたわわに実った栗。
バスは何台も通り過ぎたがよくみると上りも下りも同じ運転手。つまり1台のバスで往復している。まだ乗らずにもう少し歩いて北浅川に出る。ここはマス釣りで有名な場所。時期になると河原には釣り客が集う。釣業者はフルーツ栽培もしているらしく奥に果樹園が見える。陣馬街道の山側を見上げればとリンゴもぎ取り園のサインが。コロナ禍からの気分転換にはちょうどいい日帰り旅だった、東京都内でもあるし。
石原牧子
オンタリオ州政府機関でITマネジャーを経て独立。テレビカメラマン、映像作家、コラムライターとして活動。代表作にColonel’s Daughter(CBC Radio)、Generations(OMNITV)、The Last Chapter(TVF グランプリ・最優秀賞受賞)、写真個展『偶然と必然の間』東京、雑誌ビッツ『サンドウイッチのなかみ』。3.11震災ドキュメント“『長面』きえた故郷”は全国巡回記念DVDを2018年にリリース。PPOC正会員、日本FP協会会員。www.makikoishiharaphotography.com
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