【生誕150周年記念作者ルーシー・モード・モンゴメリ】不朽の名作 『赤毛のアン』 を知る|#数字で見るシリーズ|第一特集
世界中で愛され続ける文学作品『赤毛のアン』(原題:Anne of Green Gables)。今年は作者であるルーシー・モード・モンゴメリの生誕150周年にあたり、作品に一層注目が集まっている。日本とも深い繋がりを持ち、他の国と比べても日本には作品ファンが多いと言われている。私たちを魅了し続ける『赤毛のアン』について、モンゴメリの人生と合わせて数字を紹介していこう。
#01.発行数は5000万部世界22位
国内外で絶大な人気を誇る『赤毛のアン』だが、その発行部数は桁外れに多い。さまざまなデータを紹介するサイト「あちこちデータ」の「書籍・本世界歴代発行部数ランキング」によると、『赤毛のアン』の発行数は世界で第22位の5000万部だ。5000万部というと、『アルプスの少女ハイジ』(著者:ヨハンナ・シュピリ)や『ハリー・ポッター』シリーズの『死の秘宝』といった世界的人気作品に並び、同作品が国際的に高い認知度と人気度を誇っていることがわかるだろう。
『赤毛のアン』は、1908年に作者のルーシー・モード・モンゴメリが生まれ育ったカナダの東部、プリンスエドワード島を舞台に描いた作品だ。出版されると瞬く間に人気が広がり、発売から5ヶ月で1万9000部を売り上げて当時では大ベストセラーを記録した。
#02. ボツ原稿3年越しの出版
10代からエッセイや詩、小説を新聞社や雑誌社へ投稿し始めるなど、幼い頃から作家になりたいという気持ちが強かったモンゴメリ。そんな彼女が初めて世に出した作品が『赤毛のアン』だった。この作品は1908年に、アメリカ・ボストンのペイジ社という出版社から発売されている。だが実は、作品が完成したのはその3年前である1905年だった。
今となっては不朽の名作とまで呼ばれる大人気作品だが、当時の評判はあまり良くなかったのだ。事実、5つの出版社に原稿を送るものの全て送り返されてきたという裏話がある。それから一度は出版を諦めたが、2年後、家に眠っていた原稿を改めて読み直した際に「そんなに悪くない」と思ったモンゴメリ。もう一度書き直してアメリカ・ボストンにあるペイジ社に送ってみたという。最初の反応は微妙だったようだが、そこの編集者にモンゴメリと同じ島出身の人がいた縁でなんとか出版が決まったという背景がある。もしその編集者がいなかったら、世界的名作はこの世に出てこなかったかもしれない。
#03. 世界中に40の翻訳版
『赤毛のアン』が世界中で愛される理由の1つは、やはり現地の言葉に翻訳されたものが多く出ているからだと言える。最初に出た翻訳版はスウェーデン語で、作品が発売された翌年の1909年に翻訳されている。これまでに日本語はもちろん、アラビア語やイタリア語など40近い言語に翻訳され広く読まれている。
日本版については、出版されたのは戦後まもない1952年のことだった。2014年にNHK連続テレビ小説にもなった『花子とアン』をご存知の方もいるだろうが、ドラマ主人公の村岡花子という女性が作品を翻訳し紹介した人だ。彼女は第2次世界大戦中に、知人のカナダ人宣教師から友情の証としてオリジナル版の『赤毛のアン』を受け取っている。戦時下、敵国の言葉である英語は言論統制の下にあって厳しく規制されていたものの、花子は秘密裏に翻訳し続けたという。これは命懸けの翻訳であったと言える。そして翻訳が完成したのは戦後まもなくのことだった。
花子はそれから、『赤毛のアン』シリーズ10冊全てを翻訳している。作品が日本で大人気になり、今でも日本はカナダに次ぐ『赤毛のアン』ファンが多い国として知られている。この作品は、日本とカナダの友好の証という強い絆を感じさせる。
#04. 12Kドルの年収、840kドルの印税
モンゴメリは幼い頃から関心のあった作家の世界へと入り、成功した作家の1人として知られている。そんな彼女は、原稿料で生計を立てることができた初のカナダ人女性と言われている。
彼女のちょっとした経歴を紹介しよう。1874年にプリンスエドワード島で生まれ、一時は教師として勤務していた経歴を持つ。同時に執筆活動も続け、『赤毛のアン』を完成させる前にはカナダとアメリカの雑誌に自身の作品を投稿する日々を送っていた。1899年当時、小説家として100ドルの収入を得たという日記が残っていて、これは現在の1万2000ドル程度だという。その後ハリファックスの夕刊紙「デイリー・エコー」の校正者、社交欄担当の記者になるが、書きたいものが書けないからと生まれ育った島に戻った。島に戻って教会に通う中で、これまでずっとしてみたかった長編小説を執筆することに挑戦してみようと思い、1905年に『赤毛のアン』を完成させた。
『赤毛のアン』を執筆した1905年ごろのモンゴメリの原稿料は、年間500ドル程度。これは現在でいう約6万ドルで、いかに彼女が作家として成功していたかがわかる。『赤毛のアン』のヒットを経て年間7000ドル(現在の約84万ドル)の印税が手に入ったこともあり、彼女はますます成功者の一員となった。
#05. 小説20短編・詩500以上を公開
モンゴメリの処女作は『赤毛のアン』だが、それ以外にも多くの作品をこの世に残している。1908年に作家デビューを果たした彼女は、翌年にはシリーズ2作目となる『アンの青春』を執筆。それ以降も『赤毛のアン』シリーズを含め20冊の小説を書いた。
また、2冊の短編集も存在する。それ以外にも、主に作家活動を始めた初期に500にも及ぶ短編と詩を発表している。
#06.没後50年公開禁止された日記
モンゴメリは、生涯にわたって個人的な日記を書き続けていた。この日記は50年以上にわたる生活や心の叫び、考えなどモンゴメリを知るには必要不可欠なものとなっている。
すでに世界的に名の知れた作家になっていたモンゴメリは、生前この日記に関して遺言を息子に託していた。それは、公開するのであれば自分が亡くなってから50年後に公開してほしいというもの。没後、遺言によって日記は封印されていたが、亡くなってから39年後の1981年にオンタリオのゲルフ大学に寄贈され20年かけて教授らによって日記が研究された。
モンゴメリの日記は、詳細に記されていたことが特徴だという。第1次世界大戦への恐怖、息子を失った悲しみ、『赤毛のアン』の裏話、自然の美しさなどさまざまな観点から日記を書いていたため、当時のカナダ社会の実情を知る資料としても使われている。教授らによって編集された日記は、その後発売されている。
#07. 「アンの家」に16万人の観光客
『赤毛のアン』の冒頭に、アンのこんなセリフがある。「プリンスエドワード島は、世界中で一番きれいなところだって聞いてましたから、自分がそこに住んでるところをよく想像してましたけれど、まさか本当になるなんて、夢にも思わなかったわ」(村岡花子訳)。アンさえも夢見た美しい島を見ようと、毎年多くの観光客が訪れる。小説に出てくる景色さながらの自然はもちろん、観光客の間でホットスポットになっているのはアンが住んでいた家を再現している「グリーン・ゲイブルズ・ハウス」だ。
以前モンゴメリの親戚が所有していた家で、作品が人気になった後にカナダ政府が買い上げた(1936年)。当初は19世紀の生活様式を伝える住宅として歴史的な意味で保存されていたが、1970年代に物語の世界観をもっと伝えようと手が加えられ、中はアンの家を再現している。
人口18万人しかいないプリンスエドワード島だが、このアンの家には世界中から大勢の観光客が集まる。2023〜2024年には人口とほぼ同じの16万人以上が訪れ、過去には25万人以上が来たこともあるという(Statistaによる)。
#08. 初版本はまさかの4万ドル超
初版というのはどの作品でもレアものとして大変希少価値が高い。もちろん『赤毛のアン』も例外ではない。
初版本は緑色の布で装丁され、タイトルは金色、著作権のページには「First Impression, April 1908」と記されているとか。今では初版本を見つけることも難しいが、そんな貴重な初版本をなんと数万ドルで購入する人がいるから驚きだ。
2015年、ニューヨークで開かれたとあるオークションでは、2万1250アメリカドル(当時のレートで2万8836カナダドル)で落札された。また、それを上回ったのが2009年だ。ニューヨークのオークションで落札された価格は、驚きの3万7500アメリカドル(当時のレートで4万カナダドル以上)。それほどまでに『赤毛のアン』を愛し、この世にそれほど数の多くない最初の版を求める人がいるということだろう。
トロントでは、トロント大学のトーマス・フィッシャー・レアブック図書館が初版本を所蔵している。また、書籍や美術品などコレクターズアイテムを多数扱う「AbeBooks」のサイトには、現在数冊の初版本と思わしき本が出品されている。その価格は2万アメリカドルを超えている。
#09. 映画やドラマの映像化、20回以上
これまでに『赤毛のアン』は映画、アニメ、ドラマに形を変えて多くの人を魅了してきた。特に日本人にとって『赤毛のアン』を一般的にしたのが、1979年にテレビで放映されたアニメ『世界名作劇場・赤毛のアン』だろう。全50話からなり、監督・演出・脚本は『火垂るの墓』などで知られる高畑勲監督が担当し、画面構成はジブリの巨匠である宮﨑駿監督が担当するなど、日本や世界のアニメーション界をリードする逸材が関わった意味深い作品でもあった。
アニメにとどまらず漫画になったり、ミュージカルになったりもしている。最初に作品を文学以外の形で届けたのは、1919年の映画『天涯の孤児』(監督:ウィリアム・デズモンド・テイラー)だ。サイレント映画で、しかも舞台はアメリカ。コメディ仕立てになっており、作者のモンゴメリにはお気に召さなかったようだ。
それから幾度となく映像作品化され、1985年の映画作品は子供作品部門でエミー賞を受賞している。映画化された数は20を超えるが、最近では、動画配信サービスのNetflixとカナダのテレビ局CBCが共同でドラマ化した『アンという名の少女』が話題となった。シーズン3まで制作され、マイノリティやフェミニズムなど現代テーマを盛り込んだ作品に仕上がっている。
#10. 36歳で結婚悩み苦しんだ人生
『赤毛のアン』という作品を生み出したモンゴメリという人はどういう人生を歩んだのか。恋愛や結婚の面を少し紹介しよう。
師範学校で教員免許を取り、教師としての経歴も持つモンゴメリ。22歳の時、親戚の神学生と婚約することになった。しかしなんと、当時下宿していた先の息子と恋仲になり婚約解消。しかし恋仲になった男性はモンゴメリが理想としていたハンサムでも教養のある人でもなかったようで、結婚まではしなかった。結局別れ、教師を辞めて小説を書く生活を始めることになる。それから生まれ故郷の島に戻った彼女は、自分が書き留めていたメモからアイディアを得て『赤毛のアン』を執筆した。
執筆当時、生まれ故郷の島にある教会でオルガン演奏をするなどの活動をしていたのだが、そこに赴任した牧師と5年間の秘密の交際を経て36歳の時に結婚。当時の初婚年齢が26歳だったことを考えると、晩婚であったと言えるだろう。
新婚生活を夫の赴任地だったオンタリオ州で過ごし幸せな結婚生活を送っていたと言いたいところだが、この結婚は愛よりも教養や家柄のレベルが合っていたからだったとのこと。さらに結婚後はモンゴメリと相性が悪かったのか夫がうつ病に。“セレブ”の仲間入りをしたモンゴメリ自身も、夫のうつ病を隠し続ける苦痛や出版社との問題などさまざまな悩みを抱え、うつ病になってしまったという。
67歳で亡くなった時はトロント市内に住居を構えていたが、その家の名は「旅路の果て荘」。最後に彼女が何を思っていたのか、今となってはわからない。
#11. ドラマ作品 140カ国以上で放送
モンゴメリがカナダに与えた文化的な影響は大きい。彼女の作品である『ストーリー・ガール』(1911年)とその続編である『黄金の道』(1913年)をベースとし、『赤毛のアン』シリーズを含むさまざまな作品に登場する人物やエピソードを交えて構成したスピンオフのテレビドラマがある。
『アボンリーへの道』(1990〜1996年にCBCが放送)という作品は全世界140カ国以上で放送されるほど知名度も人気度も高く、カナダで製作されたテレビドラマとしては最大のヒット作になった。日本ではNHKが放送した。カナダでは最初のシーズンに197万人の平均視聴者数を記録。これは2003年に他作品に抜かれるまでカナダで最も視聴されたテレビシリーズとして記録されていて、『赤毛のアン』に限らずモンゴメリ作品の影響力を感じさせる。
#12. 49年連続のミュージカルはギネス記録
テレビドラマや映画でもたびたび描かれる『赤毛のアン』だが、ミュージカルもとても有名だ。舞台となったカナダでは毎年ミュージカルが開かれ、それがギネスにも登録されるほどすごい記録を持っている。
ミュージカル『赤毛のアン』は、毎年夏の季節にシャーロットタウン・フェスティバルというプリンスエドワード島で開かれるイベント期間に、コンフェデレーション・センター・オブ・ジ・アーツという場所で上演されてきた。このミュージカルは1965年に始まってから毎年開かれ、2013年7月4日に49年連続でミュージカルを上演しているということで「世界最長の上演記録を持つミュージカル」というギネス記録を持つことになった(2014年の公演も決定していたため記録は49年)。この連続記録は、2020年にパンデミックの影響で休演するまで続いていた。2022年には3年ぶりに上演が再開。この年は、主役のアンをアジア系の女優が演じるということでも話題になった。
ちなみに日本で初めてミュージカルが上演されたのは、1970年の大阪万博の時だ。オリジナルキャストであるシャーロットタウン・フェスティバル劇団が来日しての公演だったが、1980年以降は劇団四季が日本語で上演するようになった。