面倒くさい世の中|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明
デジタル化が世の中に浸透すると私のようにアナログ世代に育った者にとってデジタルは便利だけど面倒くさいなぁと思うこともしばしばある。それが逆にギスギスした社会を作り出しているように見えて世の中の不和にもつながる潜在的原因になっている気がする。デジタルネイティブの皆さんと何が違うのか、思うところを記してみよう。
自動車開発の世界で十数年前に言われた予言が2つある。
1つはほとんどの自動車は電気で動くようになる、もう1つは自動運転で勝手に目的地に連れて行ってくれるというものだ。
前者については確かに浸透しつつあるが、ここにきてやや勢いが落ちている。EVよりハイブリッド車に利便性があることが見直されていることと個人的にはテスラブームが終わった点を挙げる。
それより重要なのは自動運転の自動車開発がさっぱり進捗しないのだ。実験室ではほぼ完全に出来上がっている。だが実社会にそれを導入するとなるとリスクがまだ多く、自動車会社も当局も二の足を踏むのだ。理由は簡単だ。全ての自動車が自動運転で人間も動物も全て予期できる動きをするならとっくの昔に自動運転の車が世の中を跋扈している。
残念ながら我々の住む社会はアナログの人間様が主体であり、アナログの人間様が自動車を運転しているため、予期せぬことが起きるということだ。最先端の技術をもってしてもそこが乗り越えられないのだ。
この例からすると社会においてもデジタルが浸透してもデジタルネイティブの若者とアナログおじさんが共生する中でうまくいかないことが当然起きており、そのギャップに割と多くの人がイラつくのだ。
例えばカナダ国税とは専用のウェブサイトか電話でしかやりとりできない。Emailは原則使えない。理由は相手が誰だかわからないからだ。国税は相手を特定するためにウェブサイトへの入り口を狭くし、セキュリティを強化することで本人であると想定する。
では電話の場合はどうかと言えば大抵2〜3の秘密の質問に答えないとどんな質問にも答えてくれない。それはセキュリティの強化という形でアナログ人間をデジタル変換させているともいえる。
このようなプロセスはだんだん複雑怪奇となり、パスワードは時代と共に複雑なものを要求されるため、誰しも何種類かを使い廻していることだろう。時として「大文字」「小文字」「@#$%」が分からなくなりカリカリすることもある。
当然、人々はギスギスする。昭和生まれの我々の世代からすれば「Old Good Days」は良かったなぁ、というノスタルジアに浸ることになる。
デジタル化はコスパ、タイパといった効率を追求しやすくなる点でも特徴がある。先日もCostcoでお目当ての500ドルほどの商品を見つけ買おうかごに入れた。
が、ふと念のため、その販売会社のウェブサイトを見てみたら直販価格の方がCostcoよりも全然安いことに気が付き、だいぶお得な結果となった。
かつてなら何の疑いもなく、「Costcoは安い」と信じ込んでいたであろう。
オンラインで商品を一つ購入するにも無数にある同じような商品からどれを選んでよいかわからなくなり、様々なレビューを見ることになる。
デジタルネイティブの方々にはそれは何の苦痛でもないはずだが、私には面倒でしょうがないのだ。「探す時間、調べる時間がタイパじゃないだろう」と言いたくなるのだが、「じゃあコスパは無視でよいのか!」と反論を食らうわけだ。あぁ、面倒くさい!
友人とどこかで飯を食う場合でも果てしなく探し続ける知り合いが周りにはたくさんいるが、私のボトムラインはカナダならどこで食べてもたいして変わりはないということ。あるいはエアラインのビジネスクラスの食事をユーチューブ動画に上げて、懇切丁寧に解説している人もいるが、飛行機には「場の雰囲気」がないのでバランスが悪いといつもユーチューブの画面に向かって呟いている。
私に言わせれば一番うまい飯は気心知れた人と和気あいあいと楽しむ会話が一番重要であって、ハッピーな飯がベストだと思っている。この辺りもデジタルネイティブの方になると食事を雰囲気や店のサービスと切り離して「一人飯で食べることに集中する技」が出来るのだろう。某博多系のラーメンチェーンがそのコンセプトの店作りになっているがアナログな私はそんな店、死んでも行きたくはない。
デジタルというのはどうしても0と1の世界が主導するため冷たい感じが出てしまう。それ故に良い音楽を聴きに行き、たまには美しい絵画を鑑賞しに行き、カナダの自然に戯れ、スポーツで汗をかくといったアナログ的ライフを意図的に取り入れることが大事なのではないだろうか?
私は書籍も普通の紙の本を読んでいるが、それは本に触っていることで本から感じるぬくもりであったり、ページを繰りながら文字との格闘をするといったアナログならではの気ままさがたまらなく嬉しいのだ。
天気の良い日に自転車で景色の良いところに行き、芝生の上でごろッとしながら好きな文庫本を読むのは至福の時だ。そこでスマホを取り出すことは絶対にない。理由は現実社会に引き戻されるからだ。
私はスマホは義務感から持ち歩いているだけでパソコンやITガジェットとアナログの時間は完全に切り分けている。
メールも週末はあまりやらない。そのメリハリがあるからこそ、アナログとデジタルの境目の隙間から半分落ちかけている私でもどうにか社会にへばりついていられるのだろう。
了