静かな退職、割り切れなさの正体|カナダのしがないラーメン屋のアタマの中 第97回
時代が変える「働く」の常識
先日、「静かな解雇」という言葉を目にしました。「静かな退職」に対する言葉遊びのようなネーミングですが、この「静かな退職」は、やりがいやキャリアアップは追い求めず、契約で決められた仕事だけを淡々とこなす働き方のことです。2022年にアメリカで生まれた概念で、正社員の4割以上が実践しているという調査結果もあるほど、日本でも広がりを見せています。
今回目にした「静かな解雇」は、静かな退職への直接的なカウンターというわけではありませんが、この言葉をきっかけに、働き方をめぐる言説の移り変わりについて、あらためて考える機会になりました。
思えば、働くことに対する言葉は、これまでも数多く生まれては消えていきました。日本では、企業戦士、モーレツ社員といった言葉とともに、若いうちはがむしゃらに働くべしという昭和的な価値観が長く支持されていました。2010年代にはシリコンバレーを中心にハッスルカルチャーが広まり、近年では中国で996、朝9時から夜9時まで週6日働くという価値観が話題になりました。
一方で、労働に一定の線引きをする「ワークライフバランス」という言葉が定着し、逆に、働くことは生きることそのものだという「ワークアズライフ」という考え方も存在します。そして今、注目されているのが「静かな退職」というわけです。
契約どおりでは足りないのか
さて、この「静かな退職」ですが、僕自身は経営者として、正直、何が問題なのかピンときていません。
給与は労働の対価として支払われるものであり、契約の範囲内できちんと仕事をこなしてくれるなら、それで十分だと思うからです。むしろ、支払っている給与以上の労働を求めたり、そのように働いてくれる人材に依存しなければ成り立たないビジネスの方が、よほど危ういと感じます。
またこれは、契約の範囲を超えた労働を拒んでいるだけであって、成長そのものを放棄しているわけではありません。年功序列的な給与体系に縛られ、頑張っても評価が変わらない環境にいる人からすれば、静かな退職は「頑張っても報われないなら、線を引く」という、切実な結論なのかもしれません。
理屈のうえでは、静かな退職をする側に大きな瑕疵はないように思います。うちの店でも、従業員が静かな退職を実践したところで経営が困らないよう、ある程度仕組みで対応できるようにしているつもりで、実際、困ったことはありません。
評価に正解はあるのか
ただ、評価する側に立つと、それとは別の次元で、どうしても引っかかることがあります。
会社が個人に期待する働きと、個人が会社に期待する評価は、往々にしてズレます。このズレは誰が悪いという話ではなく、構造的にどうしても生まれてしまうものです。だからこそ、静かな退職を選んだ結果、当人が意図しない評価や、最悪の場合は減給や解雇につながることも、現実には起こり得ます。
働き方はそれぞれの人生の決断なので、余計な口をはさむことはしません。ただ、心のどこかで、このままのペースで、この先のキャリアは大丈夫だろうかと、余計な心配をしてしまう自分がいます。経営として困っていないはずなのに、この感覚だけは拭えません。
そもそも「正しい評価」が一つに定まっているわけではありません。評価の基準は、景気や業界の動向によって常に揺れ動く、流動的で曖昧なものです。静かな退職をする側も、評価する側も、この曖昧さの中でそれぞれのやり方を探り続けるしかないのでしょう。
僕自身、このもやもやに、まだ答えを出せずにいます。皆さんは、この割り切れなさを、どのように捉えるでしょうか。






