トロント・ ユニオン駅のすべて: 鉄道への夢が集まる場所|特集「歴史とロマン、カナダの鉄道・駅物語 」
建国前からたくさんの鉄道路線を実現させてきたカナダの人々。生活を便利にしたい、ビジネスを成功させたいなど、いつも彼らの無数の夢の中心になっていたのはトロントのユニオン駅だった。
駅はカナダで鉄道が開通した後に建てられたが、この存在なしにはこの国の鉄道史は語れないだろう。
昔、北米にあった大規模な駅は様々などれも鉄道会社が集まる場所という意味で「ユニオン(統合)駅」と呼ばれていた。なので「どこに行ってもある駅」と見過ごしがちだが、実はかなりユニークな歴史が詰まっている場所なのだ。
3つのユニオン駅
現在のユニオン駅が「3代目」だということはあまり知られていない。建てては壊す作業が繰り返されてきたこの駅。鉄道だけに関わらず、新しい建物を作ったり、古いビルを解体したり、常に工事をしているトロントの風景は昔とあまり変わらないのかもしれない。そもそもどうして3つも建てることになったのか、その流れをじっくり見ていこう。
カナダ初のユニオン駅の始まり
最初のユニオン駅ができるまでトロントには1853年から「Ontario, Simcoe & Huron Railway(OS&H)」を少し北にあるオーロラという街へ送り出す駅が存在した。その路線はのちに延伸され、バリー地区アランデールとさらに北西のミーフォードまで乗客を運んだ。
その3年後には「Grand Trunk Railway (GTR)」がトロントでの鉄道事業に参戦。西はゲルフとサーニア、東はモントリオールに向けて続く路線が作られ、駅も2つ増えた。
1858年、「GTR」はその後西と東の路線を統合し、「OS&H(のちのNorthern Railway)」と「Great Western Railway」を呼びかけ隣同士に事業をし始めたことが1代目のユニオン駅の始まりだという。
その名残で今でも元の場所のFront St Wすぐ南、Simcoe StとYork Stの間にはStation Stという道が存在する。
「仲間割れ」と「ユニオン」への危機
1代目ユニオン駅ができてからわずか1年で「Great Western」は4つの線路を含む独自の駅をYonge St付近に建設。「Northern Railway」も現St. Lawrence Marketのエリアに駅を開業。その頃には「Toronto & Nipissing Railway」も創業し、スカボロー方面に汽車を走らせていた。
その後1871年に「GTR」はユニオン駅を取り壊し、同じ土地に2代目の駅を1873年に開業。のちに「GTR」は「Great Western」と「Northern Railway」を吸収、「Credit Valley Railway」と「Toronto, Grey & Bruce」は 「Canadian Pacific Railway」へと合併された。
たくさん増えすぎた鉄道会社とその路線をなんとかまとめるという意味では駅の名前に「ユニオン」が入っていて縁起が良かったのかも知れない。
人気スポットとしての返り咲き
2代目ユニオン駅のメインビルは7階建てのロマネスク様式でFront Stに建てられた。1892年には増築が進むほど人気が増した。
Front Stから1ブロック南の道「Esplanade」は現在のQueens Quayのようにオンタリオ湖手前の最南の道だった。当時のホームは「Esplanade」にあったが、屋根がなかったため雨や雪の日に汽車に乗った乗客は今のストリートカーの乗客のように大変な思いをしたそうだ。
駅ビルとStation Stと挟むように大きな待合室も増築されたが月日が経つと利用客が爆発的に増え、さらに大きな駅が必要と懸念された。
検討中の1904年にダウンタウン・トロントの大火災によって駅周辺のビル全てが燃える事件が発生。クイーンズ・ホテル(現フェアモント・ロイヤル・ヨーク・ホテル)のビルだけが助かり、それを見た経営者らは火事を線路や駅の構造を見直すきっかけとして捉え3代目のユニオン駅建設へと踏み切った。
3度目の正直
1906年、カナダ議会は「Toronto Terminals Railway (TTR)」を創立。「Canadian Pacific Railway」と「GTR(のちのCanadian National Railways)」が分担して「TTR」の経営を任されることになった。
この新しい会社が西はBathurst St、東は Don Riverまで全ての線路とユニオン駅の経営も管理することになった。
「3代目」の建設計画が政府や鉄道会社、不動産のオーナーなどに受け入れられるまで9年かかったが、なんとかスタートを切ることができた。
デザインはモントリオールの建設事務所のG・A・ロス氏とR・H・マックドナルド氏、カナダ太平洋鉄道のヒュー・ジョーンズ氏、トロントのジョン・M・ライル氏によって考案。
最終的な計画が承認されたのは1914年の9月末、第一次世界大戦が始まった数週間後だった。
完成を待たずのテープカット
1911年には1日に4万人もの乗客と130台の汽車が訪れていたと言われている2代目のユニオン駅。「3代目」の工事は戦争による物資不足と資金不足で完成までだいぶ長い時間がかかった。
1920年に駅ビルは完成していたそうだが、1927年になっても線路は完成されていなかった。
それにも関わらずテープカット式典が行われ、出席していたイギリスのエドワード王子に新駅で初めて発行された切符がプレゼントされた。その切符はアルバータ行きの列車のもので、当時の価格で71・20ドル。今では1190ドルほどの結構な値段のする切符だった。
全ての工事が完全に終了したのは1930年。「2代目」は早速1927年から1931年の間に解体された。
波乱の再スタート
「3代目」のオープンは1930年代にアメリカを中心に世界的に起こった経済恐慌の数年前だった。戦争で完成が遅れていたためすでに利用客は減っていた。
不幸にも世界恐慌、そして第二次世界大戦が相次いで起こり、駅の運営を任された二つの鉄道会社は1965年10月末までお互いのサービスを統合し費用を削減していた。
そんな日々を乗り越えつつも、戦後1954年3月30日にはYonge Subway Lineが開通。University Subway Lineも1963年にユニオン駅からSt. Georgeまで結び、駅には利用客で溢れる日々が戻った。
ユニオン駅は長距離列車の拠点だったが、時代が変わることに車やバス、飛行機など交通手段が増えたため、近距離でかつ通勤に便利な路線を足す計画をした。
オンタリオ州政府が力に加わり1967年に誕生したのが「GO (Government of Ontario) Transit」だった。
もう少しで存在した「4代目」
信じがたいが3代目ユニオン駅も一度解体の危機に遭っている。
1970年に「Metro Centre」と呼ばれた再建設プランが「Canadian National」により提案された。駅を含むFront Stの南側のビルを全て解体する計画は一度市議会によって承認された。
しかしこれに対しトロント市民は大反撃。2年後に行われた市議会選挙でこの計画を支持する候補者を追いやった。
のちに選ばれたディビッド・クロンビー市長のリーダーシップのもとユニオン駅は解体の危機から救われた。
そして1975年に「Parks Canada」により国定歴史建造物に決定。2000年よりトロント市が「GO Transit」と「Toronto Terminal Railways」からユニオン駅を買収し、運営を取り締まっている。