【家族の背中を見てまねした日本人らしさ】日系カナダ人気象予報士 秋山翔太さん|アイデンティティーの交錯「カナダ人であり日本人であるということ」
日々私たちのために天気を予報し、時には警告を出してくれるのが気象予報士だ。その職業に就いて活躍するのが、日系カナダ人2世の秋山翔太さん。両親は日本から移民しトロントで魚屋「Taro’s Fish」を経営しており、異国の地でビジネスを始めた両親の背中を見て翔太さんは育った。家業を継がずに気象予報士という道を進む翔太さんに、幼少期の話から日系カナダ人としての日本との繋がり、今の仕事についてなど多様な角度で話してもらった。
多様性にあふれた同級生
―翔太さんの生い立ちや幼少期について教えてください。
ミシサガで生まれて、これまで3歳ぐらいでエトビコ、8歳くらいから数年前までマーカムに住んでいました。両親が「Taro’s Fish」という魚屋をしていて、実は私が生まれた年に開店したので店は自分の兄弟のような存在です。マーカムに引っ越してからは中国系やスリランカ系、エジブト系などさまざまなバックグラウンドを持つ友人にたくさん恵まれて、とても楽しい日々を過ごせたと思います。アジア系が多かったのでみんなフレンドリーで、特に差別もなく各自がバックグラウンドを特に気にすることのない環境だったと思います。
―翔太さんは日本語がペラペラですが、カナダの学校に通いながら日本語はどう勉強したんですか?
親からですね。今でも家族とは日本語で話しますし、グレード1から12まで毎週土曜日に日本語学校にも通っていたので、そこで勉強して家では家庭教師に課題を手伝ってもらったりもしました。日本語学校では日本語だけではなく文化についても多くのことを学びました。
―平日は英語、土曜日は日本語と大変ではありませんでしたか?
大丈夫でしたね。子どもの頃はやっぱり言語を覚えやすいと思いますが、それでもやっぱり英語の方が得意でした。今でもそうですが、日本語はどうしてもなまってしまったり間違えてしまったりすることもたくさんあります。
実はグレード11の時に高知県の明徳義塾高校に1年間留学したのですが、その時に日本語が伸びたと思っています。
「カナダ人」だった高校留学
―日本に留学経験があったんですね。でもなぜ高知県なんですか?
父が高知出身で、祖父母もいるし親戚もいたというのが一番の理由です。日本への留学は親から「行ってみたいか?」と聞かれて、じゃあ行ってみたいということで決まりました。
―留学生活はどうでしたか?
とても楽しかったです。良い友人にも出会え、寮生活も経験できて良かったです。カナダでは授業が終われば先生とはあまり関わることがなかったのですが、日本は先生と生徒の距離が近くて仲が良いですよね。部活の先生と一緒にご飯を食べに行ったこともありましたし、カナダの学校との違いについても知ることができました。
―周りの人は翔太さんを日本人として、あるいはカナダ人として扱っているように思いましたか?
両方あったように思います。でも学校ではカナダ人として見られていた方が多かったですね。正直生物の授業には全然ついていけないし、歴史や古典はもっとダメでした。特進クラスに入っていましたが、授業中はずっと寝ていてテストも全部赤点でした。カナダ人だからしょうがないと感じていましたが、周りからも1年だけだから頑張れと言われたこともなく、しょうがないと思われていたんじゃないかと思います。
魚屋の両親は誇り
―ご自身のアイデンティティーについてはどう考えていますか?
日本とカナダの両方あると思います。もちろんカナダで生まれ育ったのでカナダ人ですけど、日本のアイデンティティーも強いと思いますし、半分半分くらいだと言えると思います。
―ご両親は日本から移民してきたわけですが、そういった家族の影響というのは大きいと思いますか?
もちろん大きいと感じますし、両親のことを日本人としてとても誇らしく思っています。昔は魚屋なんてあまりない環境だっただろうに、カナダに来て店を開いてやっていることがとてもすごいことです。私自身高校生、大学生の時は巻き寿司を父から教えてもらって店のキッチンで作っていたこともあって、サバの三枚おろしなんかも教えてもらって一緒に働いたこともありました。
そうやって生きてきた中で、両親と自分は似ている部分が多いなとも思います。例えば早起きして一生懸命店をやる姿はよく見ていましたし、その背中を見て自分もまねして頑張ろうという気持ちにはなったし今でもそうです。
また、親以外に母方の祖母の影響も大きいです。2022年に亡くなりましたが、それまで一緒に住んでいたので小さい頃からご飯を作ってくれたり勉強を見たりしてくれていました。お風呂の中でかけ算を教えてくれたこともあったし、関西弁でしたけど日本語を教えてもらいましたね。字をきれいに書きなさいと言われ続けていたので、今でも字を書く時には気にするし、いろんなところで日本人らしさみたいなものを学んだように思います。
恐怖が興味に気象予報士への道
―現在は気象予報士として活躍されていますが、どうしてその道を選ぶことになったんでしょうか。
小さい頃から嵐や雷がとても怖かったんです。怖いからこそいつも意識して観察していたし、いつからかどうして嵐や雷が発生するのか気になるようになりました。勉強してみたい気持ちが強くなって、高校生の時に気象予報士の仕事をしてみたいと思うようになりました。ヨーク大学の地球大気科学学部(Earth and Atmospheric Science)に進学し同級生は4人だけでしたが、勉強したかったことを学びました。
―ご両親のお店ではなく政府機関で気象予報士として働きたいということについて、ご両親から何か言われたことはありましたか?
全然ありませんでした。小さい時から「やりたいことがあったらそれを頑張りなさい」と言われていたし、魚屋で働いてほしいなんていうことは全くなかったですね。
―今はどこで仕事をされているのですか?
大学を卒業後、連邦政府の環境・気候変動省で気象予報士として勤務しています。オンタリオ州を担当していて各地域の天気予報を作成したり、例えば悪天候の際に警告を流すかどうかをチームで話し合ってどんな情報を警告で流すかということについても考えたりします。
―仕事の中で印象に残っている出来事はありますか?
2022年5月の激しい雷雨と、2022年1月の大雪の日は印象的でした。ひどい雷雨が発生した時は、速さ130キロメートル以上の強風がトロントにも直撃して被害が多く出ました。その悪天候によって10人以上の方が亡くなってしまって胸が痛かったです。大雪は50センチ以上の積雪で高速道路は渋滞になり、運転者たちは車を放置して避難せざるを得ないほどでした。
その日私は夜勤だったので夜7時から朝9時まで勤務して、終わってから帰宅しても雪のせいで家に入れず、近くに車を駐車してまた夜7時からの仕事に出たという思い出があります。
―そんな悪天候の日は仕事がかなり忙しそうですね。
そうですね。忙しい時はずっと天候を予測して文章を書いて働きっぱなしです。2021年の嵐の際はプレッシャーもすごくありましたが、私たちが予報を作っている間にも1人が亡くなったというニュースが入ってきて、ストレスも受けますしきつかったです。でもむしろそういうことがあるから、予報をする側として頑張らないと、というモチベーションに繋がっています。
―そういった経験を通して、気象予報士としての使命感が生まれるということでしょうか。
人が亡くなるようなことがないように仕事に励みたいという思いになります。自分1人だけが頑張ってもだめなので、チームとしてみんなで一緒にうまくやっていきたいですね。気象予報士の仕事をしていて、もっと自分にできることはあると感じることばかりです。
日系野球リーグで繋がりも
―今でも日本との繋がりはありますか?
仕事柄あまりコネクションはありませんが、プライベートでは父が日系カナダ人の野球リーグにチームを持っているので、そこで毎週日曜日に試合に出ています。日系の人だけじゃなくどんな人種でも参加できるリーグですが、やはり日本人が多いです。日系の人、学生ビザの人、ワークビザの人などさまざまで、高校野球経験者もいるのでおもしろいです。
―日本人の中には、日系カナダ人との出会いの場を求めているけれどもなかなか出会えないと思っている人も多いように思います。そんな人に何かアドバイスはありますか?
実際日系カナダ人はたくさんいますし、例えば父は日系カナダ人のゴルフクラブに入っています。野球でもゴルフでもスポーツ系には集まっている気がします。年齢が上の方もいれば若い人もいるし、そこに行けば皆さんもいろんなコネクションができるのではないかと思うのでぜひ参加してみてほしいです。私自身も日本との繋がりは持ち続けたいですし、いろんな人に出会えたら嬉しく思います。
1996年カナダ生まれの28歳。両親は魚屋「Taro’s Fish」を経営し、幼い頃から日本食や文化を身近に感じる。グレード11(高校2年)時には高知県の明徳義塾高校に1年間留学し、硬式テニス部に入部するなど日本の学校生活を経験。トロントのヨーク大学に進学し気象について学び、現在は環境・気候変動省で気象予報士として働く。日系野球リーグのメンバーとして毎週試合にも出場し、日本との繋がりを持ち続けている。