トロント総合病院 呼吸器外科准教授 安福和弘先生 インタビュー | 特集 カナダ・Professionals

世界トップの最先端技術を駆使し、病に苦しむ人々の命を救う現代の呼吸器外科界を牽引するパイオニア

現在、トロント総合病院にて呼吸器外科准教授を務め、臨床や研究、後世の教育といったありとあらゆる場面で活躍する日本人医師、安福和弘先生。安福先生は、過去には世界初となる超音波気管支鏡を開発するなど、現在に至るまで呼吸器外科界に大きなイノベーションをもたらし続けている、いわば日本が生んだ世界的権威と呼べる医者の一人だ。患者の体への負担を少なくした上で、常に最善の治療方法を追い求めるという安福先生の真っ直ぐな情熱こそが、一見不可能にも思われるようなこれまでの偉業や実績を生み出している。そんな呼吸器外科界に革命をもたらした安福先生に、これまでの道のりや、立ちはだかった挑戦、今後の目標などたっぷりとお話を伺った。

安福先生が医師を志したのはいつの事だったのでしょうか?

自分の将来について真剣に考えだしたのは中学生の頃でした。「将来何をやりたいか?」と考えた時に、「人の人生に影響を与えられる職に就きたい」と思い、弁護士、教師、政治家や牧師などいろいろと考え、その選択肢の一つが「医者」だったのです。ある時、ひょんなきっかけで手術を見る機会があり、一目で「これはすごい」と思いましたね。人間の手で人の病気を治せて、かつ自分は昔から手先が器用だったのですが、それも活かせるということに気付き、外科医になりたいと思ったのです。

父の仕事の関係で、当時はアメリカ・カリフォルニアに住んでいたのですが、今後自分一人でアメリカに残ってグリーンカードを取得し、アメリカで医師免許を取るのか、それとも日本に戻って医者になるのかということや、自身のアイデンティティとなる日本の文化を大切にしたい気持ちなど、すべてを含めて考えた時に、やはり日本に帰って高校受験しようという決断に至りました。そして、高校からは日本で過ごし、千葉大学医学部へ入学することになりました。

自分が新しいことを開発して呼吸器外科の領域を変えていけるんじゃないかと思った

医者の中でも、なぜ外科医を選ばれたのでしょうか?

メスを持って人を切る、というのは、患者さんと医者との間にそれだけの信用・信頼関係が必要です。そして医者にはその責任が伴うことになります。薬の処方だけではなく、切って治すのは外科だけで、自分の手で人の病気を治せるというところに憧れましたね。かつ呼吸器外科は専門性が極めて高く、僕が医学生の頃はまだ治療の面において未解決な部分が多かったので、将来的にいろんな開発の余地がある、自分が新しいことを開発して呼吸器外科の領域を変えていけるんじゃないかと思ったのです。

医者になるという目標のもと、日本への帰国を決意されたとのことですが、高校生時代、進路への迷いはありませんでしたか?

高校に入った後も、医者になりたい思いに迷いはありませんでした。筑波大附属高校に通っていたのですが、アメリカには部活がありませんので、そこは大きな違いでしたね。当時のバスケットボール部のキャプテンに勧誘されて、何も知らぬままそのまま入部、そこで日本の厳しさを目の当たりにし、未経験だったそれに惚れ込んでしまったのです。監督が鬼のように恐い先生で、秋の大会で負けた時には、二年生がみんなクビにされてしまう出来事がありました。もちろん本当にクビにするわけにはいかないということでしたが、僕を勧誘してくれたキャプテンもその役目を剥奪され、なんと次の日から代わりに一年生の僕がキャプテンを務めることになったり。アメリカでは一切ない、根性主義的な世界にはまり、高校時代はバスケットボール一色でしたね。

では、大学でもそのままバスケットボール部に所属されていたのですか?

大学では何か苦手な分野に挑戦したくて、あえて野球部に所属しました。最終的にはレギュラーに選ばれて、一番バッター、守備ではセカンドを守るまでに成長。それと同じく、母校の高校の女子バスケ部のコーチを二年ほど担当しました。

自分で決めたことだから、辛いことも辛いと思わなかった

それだけのことを医学の勉強と両立するのは、大変ではありませんでしたか?

自分で決めたことだから、辛いことでも辛いとは思いませんでしたね。自分で決めたことは、自分で責任を持ってやっていくということを突き詰めてきました。

何事に対しても、ストイックに臨まれていたのですね。医者を志す上でどなたか理想像になる先生の存在はありましたか?

学生の頃にはわからないままでしたが、卒業してから出会った大岩孝司先生が生涯の師匠だと思っています。医者になって五年目で大岩先生が始めた他病院の外科の病棟より声がかかりました。大岩先生のもとで学んで半年後には、千葉大学病院の教授に帰ってこいと言われましたが、大岩先生の患者の診療方法、外科医の考え方、プランニングの仕方など、僕にとっては全てがアイオープナーで、「この先生について学びたい」という気持ちが強かったので、僕は戻らないと言ってしまったのです。教授に反するということは、その仕事を辞めるということ。結果的に一度は医局から除名されてしまうこととなりましたが、僕にとってはそれだけ大岩先生に学ぶことが重要でした。

自分は大学病院での経験もあったので、若造ながらある程度は出来ると思っていましたが、手術一つとってみても大学とはやり方がまるで違っていました。ただそのような厳しい指導を経験していくと、自分はいかに出来ていないのかということ、そしていかにその大岩先生の手術方法が良いのかがわかってくるのです。それ以外にも、大岩先生は外科医でありながら、いかに末期の患者さんが自らの死を家で迎えるかという在宅緩和治療にも注力されていました。外科医としてただ切るだけでなく、診断から治療して、病気が再発したら、最後まで診る。現在は病院を退職、永遠の外科医の宿題とおっしゃっていた癌の在宅緩和治療をされていて、何冊も関連書を執筆しています。大岩先生に出会っていなければ、確実に今の自分はないと思っています。

大岩先生と

大岩先生のもとで学ばれた後は、どちらの病院で働かれたのですか?

一度除名された僕ですが、その後新しく教授に就いた先生に、また大学に戻ってこないかと言っていただけたので、再び大学病院へ戻り再出発することになりました。その後は肺移植の基礎研究のため、1999年にはインディアナ大学医学部に留学。それから日本に戻って、大学院を修了し、医局員として医学博士号を無事取得しました。

また安福先生は、超音波気管支鏡の開発にて産学官連携功労賞表彰と厚生労働大臣賞を受賞されたそうですね。

留学では肺移植の研究をやっていたのですが、その傍らで内視鏡に興味がありました。2000年頃より気管支鏡の研究をオリンパスと共同で取り組み、のちに超音波気管支鏡(EBUS)を初めて世に出すことに成功しました。当時は日本以外に世界で広めるために、持ち前の語学力を活かし世界各国の学会で超音波気管支鏡を発表、現在呼吸器外科のリーダーと言われる人たちにも千葉大学で教えたりしていました。

トロントへ初めて来たのはいつのことでしたか?

千葉大学として肺移植の認定施設になるという目標があり、そのためには研究業績や臨床経験のある人材が必要でした。先輩のコネクションなども利用して、2006年、肺移植を学びにトロントへやって来ました。このトロント総合病院の呼吸器外科は世界でトップ、特に肺移植に関しては世界有数の施設です。アメリカの呼吸器外科のトップと言われる先生方もそのほとんどがここでトレーニングを積んでいるほどですし、呼吸器外科という専門科の概念が始まったのもここが最初なのです。

当時私は9ヶ月トロントにいたのですが、肺移植を教わるだけでなく、EBUSなどの紹介や超音波気管支鏡と縦隔鏡という二つの手術法の直接対決の臨床試験をやっていました。その9ヶ月間で見せた技術開発などの腕を買われて、2008年から正式採用が決定し、再びトロントで仕事をさせていただくことになりました。日本人がトロントの呼吸器外科のスタッフに選ばれたのは自分が初めてだったようです。

EBUSでの受賞時


一からのスタートになりましたし、ものすごい決断ではありましたが、自分が思い描いていた以上はできて、家族もハッピーでいてくれているのではないかと思います。

好きな言葉「初志貫徹」
医者として、教育者、研究者、親としても、「自分で決めたことは、最後までやり通す」精神を大切にしている。

トロントに来てからの、安福先生の呼吸器外科医としての取り組みについてお聞かせください。

ここでは手術が上手いのは当たり前、手術の中でも自分の特別専門性の高い手術ができること、教育者として教育できること、そして研究という「臨床、教育、研究」の三本柱が重要になってきます。臨床に関して言えば、私はインターベンショナルソラシックサージャリープログラムのディレクターとして、最先端の技術を入れた世界にはないような特別な内視鏡室を建設したり、肺がんのロボット手術プログラムを2011年にカナダで初めて立ち上げました。また、GTx ORと呼ばれるCTスキャンなどのイメジング技術を手術に取り込めるようにしたオペ室を、8億円にも及ぶ予算で建設し、臨床試験で色々な技術を使い最先端の手術を行うというプログラムも立ち上げました。去年の1月からは、UHN(University Health Network…幾つかの病院などのヘルスケア施設が集まってできた組織)の全内視鏡部の部長を、今年の10月からは腫瘍外科の副所長を務めています。他には学会など外部の仕事も忙しく、年間に30〜40回ほど世界中で講演を行っていますね。もちろん肺移殖医としても頑張っています。

教育面ではインターベンショナルソラシックサージャリープログラムを始め、1年間で特殊な技術を身につけるためのフェローシッププログラムを作ったり、呼吸器外科の専門に入ったカナディアンに新たな技術を紹介する場所として、ブートキャンプを始めました。常に世界中から多くの外科医が研修・見学に我々の施設に訪れてます。その他、千葉大の国際交流部とは繋がって、日本からこちらに来て医療を学べる学生の受け入れ、そして安福基金を作って学生らの渡航をサポートしています。

研究面では、肺がん治療の技術を開発、分子学やナノ粒子を使用して研究したりというラボをたった1人から立ち上げ、現在は10人を超える優秀な人材が集まるラボに成長しました。資金はプリンシパルインベスティゲーターである私が集めねばならず、当初は大変なこともありましたが、これは投資だと思って続けています。

カナダ初の肺癌に対するロボット手術時

大岩先生を師と仰がれている安福先生は、周りの先生方にどのように接することを心がけていますか?

厳しくすべき点は厳しくしていますが、日本から研究のために来ている先生方には、夜は家に帰って家族とご飯を食べるなど、日本では忙しくてなかなか経験できない自分の生活を楽しんでほしい、そして業績もしっかりと上げて、病気なく日本に戻ってほしいという話をしています。また、ここでしか見られない世界的にレベルの高い手術を見て、呼吸器外科医として刺激になればと思います。

これほどまでに様々な偉業を成し遂げられている安福先生ですが、何か高い壁にぶちあたった時のエピソードがありましたら教えてください。

サンディエゴで行われた学会の講演後に、とある記者にインタビューしていただいたのですが、そのインタビューで読者に誤解を与えかねない本意とは異なる報道が出回ってしまったのです。幸い、周りの方々も私の本意を理解してくださっている方が多かったので、大きな問題にはなりませんでしたが、その時は一瞬にして報道が広まったこともあり、ひどく落ち込みました。ただ、私が困った時はいつも妻が支えてくれますね。妻にはなんでも相談できて、妻が家を守ってくれてるから今の自分がこうして仕事ができていると考えると、本当にありがたい存在です。

患者さんの一人一人が忘れられない存在

最初にトロントに留学した時の手術

今でも忘れられない患者さんや、医者をやっていて幸せに思われたエピソードはありますか?

毎日がその連続ですね。病気だった患者さんが、「ありがとう」と言ってくださり、ちゃんと元気になってお家へ帰ってもらう、それだけです。どの患者さんがということはなく、みんな一人一人が忘れられないですね。

ITSS(内視鏡室)でフェローを指導中

今後の展望を教えてください。

研究の面は、これからも色々な最先端技術を盛り込んで、低侵襲でどのように癌を治していくかという点、教育に関しては、研修医などに向けて新しい技術開発をして引き続き教えていくという点を突き詰めていきます。最近は自分だけでなく、部署の全体をさらにどうやって飛躍させるか、という部分も、いずれはやっていかねばならない部分になるのだろうと感じています。世界で一番の呼吸器外科であり続けるために、ということを念頭に置いてやっていきます。

常に自分の最高の技術を持って最善を尽くす

GTx OR内でラボのメンバーと

最後に、安福先生が考えるプロフェッショナルとは何でしょうか?

人は皆、それぞれの得意とすることや、その人じゃないとできないことがあると思います。そして、そのすべての面において、自覚と責任を持ち、完璧にできるからこそプロフェッショナルと呼べるのではないでしょうか。妥協や失敗を許さず、常に自分の最高の技術を持って最善を尽くす、という点を、自分自身もしつこいぐらい突き詰めていきたいですね。

安福先生の年表

10代

外科医になると決意し、日本に帰国
高校に入学し、厳しいことで知られるバスケ部へ入部

20代

救急医療センターで働いていた妻と知り合う
今後の人生を支えあうパートナーとなる

30代

大岩孝司先生との出会い今の外科医の姿を形成してくれた
31歳くらいの時から2年間、長く濃い時間

40代

カナダへ渡り、呼吸器外科の世界トップと呼ばれるトロント総合病院へ。
2年後には正式に採用され、一からカナダでの仕事をスタートする