“映画でやりたいところは人が出会ったりすれ違ったりするという行為” 第36回東京国際映画祭『左手に気をつけろ』井口奈己監督インタビュー Web拡大版
2023年10月に東京国際映画祭のNippon Cinema Now部門で上映された井口奈己監督の新作『左手に気をつけろ』が、日本では6月8日から全国順次ロードショー公開される。2001年に『犬猫』でデビューして以来、20年以上のキャリアを誇る井口監督の新作は、画家の金井久美子さんと小説家の金井美恵子さんがエグゼクティブプロデューサーを務める43分の短編。一体どのような経緯でこの映画ができるに至ったのか、昨秋の映画祭で井口監督にお話を伺った。
映画『左手に気をつけろ』制作の経緯
―左利きが取り締まられる物語を作るに至った経緯を教えてください。
著名な小説家の金井美恵子さんと、そのお姉様で今回ポスタービジュアルを作ってくださった画家の金井久美子さんが、コロナ直前の2019年くらいに、「出資をしてくれる方がいるので映画を撮ってみないか」と声をかけてくれて。「いいですね」と言ったものの、その後すぐにコロナ禍に入ってしまい、止まっていたのですが、コロナ明けの2022年頃に連絡が来て、「映画作るわよ、本気よ」と言われたので、「あ、はい、じゃあやります」みたいな感じで始まりました。
金井さんたちからは、短編で作るという条件に加えて、コロナ禍で撮った『こどもが映画をつくるとき』も気に入ってもらっていたので、「短編で子どもが暴れる映画がいいんじゃないの」と提案されました。短編で子どもを暴れさせるにはどうしよう、と思っていたときに、私がジョン・カーペンター監督が好きで、子どもが大人を襲う『光る眼』や、霧が人間を襲う『ザ・フォッグ』のイメージが合わさって、子どもが大人を連れ去る映画を作ったらいいんじゃないかなと思いました。
―ジョン・カーペンターがお好きなんですか。ちょっと意外です。井口監督の作品には、ジョン・カーペンターのホラー映画のイメージとは違う印象を受けていました。
好きです。ホラー映画は撮ったことがないですが、私が子どもの頃は夜中も昼間もテレビで映画が放映されていた時代で、ジョン・カーペンター監督作品ってよくやってたんですよ。テレビ東京とかフジテレビとか、各局が映画を放映する中で、特に深夜に怖い映画をやっていて、『ハロウィン』とかも最高でした。
―小説家の金井美恵子さんとはどのように知り合われたのでしょうか。
もともと私が金井美恵子さんの小説のファンでした。2001年に8㎜で初めて撮った自主映画で、金井美恵子さんの小説の設定を黙ってお借りしたんです。目白を舞台に書かれた目白4部作がものすごく好きで、その中の「小春日和」という小説の、女の子ふたりが古民家みたいなところに住んでいるという設定だけをいただいて映画を作りました。そうしたら映画評論家の山田宏一さんが気に入ってくれて。山田さんは、私が金井さんの小説の設定を借りているのはご存じなかったんですけど、金井さんとお知り合いで、「まるで金井さんの小説みたいな映画があるんだけど、観てみない?」と勧めていただきました。それで金井さんが映画を気に入ってくれて、その後は映画を作ると観ていただいています。
―小説家の方が映画を作ろうとするのは珍しいような気がします。
金井さんは映画についての本をたくさん書かれています。
今回、お姉様の作品を収集されている方の財団が記録映画にも出資されていると聞いて、「それなら井口さんの映画を作ったらいいじゃない」と話を持ちかけてくれました。
―43分という短編は、どのようにして決まっていったのでしょうか。
43分の短編になったのは、金井さんたちが『だれかが歌ってる』という、カフェのイベント用に撮った30分の映画を気に入っていただき、そのような映画をと依頼されたからです。
―前作の短編『だれかが歌ってる』が作られた経緯はどういったものだったのでしょうか。
2019年にタビラコというカフェのクリスマスイベントがあって、音楽ライブや、画家の人がライブペイントをするんですが、店主から「井口さんも参加したらいいじゃん、映画を作って上映すればいいんだよ」と言われて、ささっと作ったものです。
タビラコは『左手に気をつけろ』にも登場しますね。
―井口監督はこれまでは商業映画を撮ってきていたのに、最近では小さい規模の自主映画を撮られているのが少し不思議でした。
対人関係で揉めたりして、ちょっと嫌になっていたときに、こども映画教室という子どもが映画を3日で作るワークショップの講師をしたことがあるんです。そのワークショップに参加したことが自分にとって新鮮な出来事であり、映画を作るときの初期衝動を思い出させてくれる体験でした。子どもたちは何者かになろうとかでなく、単に楽しく映画を作っていて、その子どもたちが作った映画が、ものすごく良くて、こんなふうに映画を作ればいいのかなと思って。嫌になっていた人間関係を脇に置いて、できる範囲で映画を作ればいいんだなという気持ちに変わっていきました。
―『左手に気をつけろ』では、物語も自由に作っていったのでしょうか。
そうですね。子どもが暴れるというのを主軸にすると撮影がすごく大変そうだし、子どもたちをずっと拘束するわけにもいかないから、どうしようかなと思っていたところ、ちょうど講師をしていた映画の学校の生徒が、左利きを隠している女の子に告白される女の子の話というプロットを出してきました。そのときに、左利きのところだけもらってもいいですか、と聞いたら快諾してくれて。私が左利きなので、左利きが迫害される世界で、子どもが左利きを連れ去る設定にして走り回らせたら、暴れている感じを出せるかなと思いました。
あと、M.I.A.というスリランカ出身でイギリスの女性のラッパーがいて、2010年頃、「Born Free」という曲のPVが話題になっていました。赤毛が迫害されている世界で、地雷原を走らされる赤毛の人たちがバンバンぶっ飛んで狩られていくみたいなPVで。そのPVのイメージを混ぜて、金井さんたちにプレゼンするときに話のベースラインを作りました。左利きが迫害されて、子どもたちがワーッといくと説明をしたら、「『左手に気をつけろ』ね」と美恵子さんがおっしゃって、タイトルが『左手に気をつけろ』になりました。
左利きについて
―監督も左利きなんですね。迫害されるのは、実体験としてありますか。
さすがに迫害されたりはしませんが(笑)、左利きって、私の時代だと迫害というより、右に矯正されたりしているんですよ。そうすると脳が混乱して、基本的にずっと混乱しているので、とっさに左右がわからなくなります。それで左利きの事故死率が40倍とかで、世の中が右利き用にできている中で、すごく生きにくいんだなと思うことはあります。
―左手でスプーンを回しているところで左利きに気づきますよね。おにぎりのパッケージの開けにくさも、とてもよくわかりますが、左利きでない人は気づかないと思います。左利きから話を膨らませていったのは、井口監督の経験からでしょうか。
左利きが見た目で分かりやすいからですかね?私が映画でやりたいところは人が出会ったりすれ違ったりするという行為で、そこを撮りたいと思っています。あとは登場人物が意見を変える瞬間に興味があります。今回だと、主役のりんが嫉妬心から自分で通報した人たちを、気持ちを翻して助ける、みたいな、そういう気持ちが変わる瞬間に興味があって。山中貞雄監督の『河内山宗俊』で、かわいい15歳の原節子をふたりのおじさんが自分の利益度外視で身を挺して助けるみたいな、そういう話をやってみたいと思っていました。でも、現代の普通の生活の中で身を挺して誰かを助けるような場面はなかなかないから、こども警察がいて大人が狩られてしまう非日常的で強引な設定があれば、もしかするとできるかなと思って、大人のパートを作りました。
あと、カフェのタビラコを出そうと思っていました。タビラコで、登場人物たちに何か起きるといいなというところから逆算して作っていきました。
―ラストのシーンは、ほとんどの人が左利きという設定ですよね。あれは、実際に左利きの人に出てもらっているのでしょうか。右利きの人に左利きを演じてもらうのは難しいと思いますが。
さすがに左利きの人ばかり集められないので、右利きの人に集まってもらって、画面を反転させています。
映画を作るようになったきっかけ
―もともと、どんなきっかけで映画を作り始めたのでしょうか。
最初はスタッフとして録音部の現場に行っていました。最初の監督作品は、ある女の子から、「映画撮らないんですか」と電話がかかってきたので、「じゃあ撮りますか」みたいな感じで始まりました。1998年頃の話です。スタッフは知り合いにお願いして、電話をしてきた子を主演に8㎜フィルムでちょろっと作ろうと思ったら、すごく時間がかかって1年くらい撮影しました。
―じゃあ、そもそも監督になりたかったわけでもないのでしょうか。
監督というか、映画をつくる人になりたいなと思っていました。はじめは録音部の助手になりました。録音部は現場で録音して、スタジオで仕上げをするまでが仕事なのですが、私はスタジオワークが苦手だったので、現場だけで完結する映画の仕事はないかなと思って、スクリプターになろうと思いました。今は映画の現場のいろいろな部署に女性がいますが、当時はあまり女性がいなくて、でも昔からスクリプターは女性がやっていました。フランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』を観ると、監督の横で耳打ちし合って映画の次のアイデアを出しているような存在で、憧れていました。それで、スクリプターの先輩に弟子入りをお願いしたら、「あんたみたいな生意気な奴は無理だ、向いてないからやめたほうがいいよ」と言われてしまって(笑)。スクリプターは監督のアイデアに乗って、「いいですね」という体で進められない人は無理だよと、自分で監督やったらいいじゃないかと言われて。まさか断られるとは思っていなくて衝撃を受けたのと、映画を撮らないのかと電話がかかってきた時期が近かったので、自分で監督してみろと言われた勢いで映画を作ることになりました。
―それよりさらに前から、もともと映画業界に入ろうと思っていたのでしょうか。
私が20歳くらいのときには、「ぴあ」とか、東京だと「シティロード」という雑誌があって、そこに「何々募集」とか「手伝いませんか」とか、電話番号入りでいっぱい募集が書いてあったんですよ。それで「映画のお手伝いをしませんか」という募集を見て電話したら、その日に来てくれと言われて、行ったらそのまま自主映画の現場に巻き込まれて、家に帰れなくなりました。
―そこに踏み込もうとしたのは、もともと映画が好きだったからでしょうか。
そのときは、もうほんとに暇だったんです。私は映画は嫌いではないけど、当時はものすごく観ているわけではありませんでした。
―映画雑誌は読んでいたのでしょうか。
そうですね。「ロードショー」とか「スクリーン」とかですね。
―電話をかけたら自主映画の現場に入ることになり、そこで録音をやることになり、ということですが、脚本を書いたりはしていなかったのでしょうか。
最初の作品で初めてちょっと書いてみて、弟子入りを断られたスクリプターの先輩に見てもらったら、ところどころ詳しいプロットだなと言われて。脚本の体になっていなかったのに、それもわかっていませんでした。撮影時に、ワンシーン撮影しては脚本を書き、ということをしながら、1年半撮影して、1年くらい編集していました。
―それは自主映画だからできたのでしょうか。
そうだと思います。編集も今はパソコンで、巻き戻しの時間もなくて速いので、別のバージョンを次々作れるんですが、8mmだと、実際にフィルムを切るところにスプライサーの切り跡が入ってしまうので、フィルムは編集が決まってから最後の最後に1回だけ切るようにして、すべてのフィルムをビデオに起こしてからビデオで編集していました。当時は、粗大ゴミをカジュアルに拾って来ることができて、捨ててあったダブルカセットのビデオデッキを拾ってきて編集機として使っていました。ジョグをグルグル回せるタイプで、こっちで出力したビデオをこっちで録画して、ジョグで頭出しをして、みたいにビデオをダビングしながら編集していました。これはタイミングが難しくてなかなかいいところで止められなくて、3カットくらいつなぐのにも丸1日かかったりしていました。
―それだけ時間をかけたらお金もかかりそうですけど、リサイクル機材を使って自前で何とかしていたのでしょうか。
当時、録音部のスタジオの片隅に編集セットを作ってもらって、タダで編集させてもらっていました。一度全部つながったとき、スタッフみんなに見せたら、全員が寝てしまったんです。あんなに大変だったのに、クソ映画を作ったかもしれないと衝撃でした。そこから、どうにかしようと再び編集が始まりました。それで編集に1年半くらいかかってしまいました。
―時間をかけて映画が完成して、それからどうされたのでしょう。
編集が全部終わったとき、映画づくりってこれで終わりじゃないかもしれないと気がつきました。映画って、完成したら人に見せないといけないんじゃないかと。でも、全然当てがなかったので、どうしようと思っていたら、ちょうど新人監督の登竜門であるPFF(ぴあフィルムフェスティバル)の締切まであと3日でした。それで出しちゃえ、と出しに行ったら、入選できたんです。別件でその8mm映画を公開することになり、敬愛する映画評論家の山田宏一さんに観ていただくことができました。
私は映画の現場に行きつつ、映画館でバイトもしていたのですが、そこの支配人がプロデューサーになって、東京テアトルの新しい企画で新人を発掘するレーベルみたいな企画をやろうとしていた時期でした。その支配人が山田さんのことを尊敬していたので、山田さんがほめているのが自分の下で働いている奴だと知って、8㎜の映画をリメイクする形で嫌じゃないならデビューさせてやるぞと言われました。それで商業映画デビューすることになりました。
映画制作や映画業界について
―今回、映画祭に出品されて、すごく久しぶりな印象を受けました。
そうですね、久しぶりですね(笑)。映画作りについて無意識にストイックに考えていたところがあったのですが、今後は商業ベースでもみんなを納得させつつ、自分がやりたいことと両立して、わかりやすいものを作ればいいじゃないかと思っています。自分がやりたいことを説明しても、みんなは興味がないってことがわかったので(笑)。みんなの興味があるテーマやストーリーは入れて、自分がやりたいことをやればいいんだなと、やっとわかったというか。
―それはどういうところでしょうか。
私は、ストーリーよりもアクションに興味があるのですが、人々は映画内のアクションには実はそんなに興味がないのかもと気がつきました。みんなストーリーを語りたいし、テーマや社会性があるかとすごく問われるので、入れてやろうと思っています。細部のこだわりは自分の好きなようにやりながら。
―ここ最近、映画業界の闇が表に出てきて、女性が過ごしにくい環境も明らかになってきたので、今までは作りにくい環境があったのかと勝手に想像していました。
今問題になっているようなセクハラやパワハラではなくても、今も男女差はものすごくあって、女の人を登用しようということにはなかなかならないというか。
―まず男性の輪に入れないですもんね。
そこは今もなかなか突破できないというか。問題視できにくいところに問題があるように思います。私が若かった頃だと、男性なら何年か助監督をやっていると周りのプロデューサーと知り合いになって、プロになる道のりがあったんですけど、女性の助監督を拾ってやろうなんてプロデューサーはいないね、と初めから言われていました。
―井口監督の映画では、女性が自分の思うままに動く結果、男性は翻弄されますよね。
何年か前の映画祭でも観客の男性の方に言われたことがあります。あなたのように女性が勝手に生きていく映画を作られたら、自分の娘が結婚しないで困ると。そんな思想をばらまかないでくれと。意識して描いているわけじゃなく、自分の作品がそういう構造なんだということに最近気づきました。
―女性にそうあってほしくないと思う男性はいっぱいいそうです。
でも、逆に男性に味方もいるんですよ。それは年齢と関係なく。ただ、個人単位で理解を示す男性がところどころにいても、集団で組織になると、男性の論理で進んでいく気がします。
海外での上映について
―今後は、海外に出て行くことは考えていますか。日本映画がもっと観たいとカナダの読者が思っても、海外に出るのは簡単ではないのかなと感じますが。
日本は、みんな普通に英語をしゃべるわけではないから、そのハードルが大きいのかもしれませんね。それも近いうちにテクノロジーがハードルを下げるかもしれませんが。
『こどもが映画をつくるとき』というドキュメンタリーが、アメリカのアマゾンプライムに最近入りました。日本の映画を世界に出す仲介の仕事をしている人がいて、ちょうど最近撮られた子ども向けの作品を探していると声をかけてくれて、配信が決まりました。少し前から日本でも見られるようになって、少しずつ広げていっている感じです。
【プロフィール】
井口 奈己監督
1967年、東京生まれ。2001年に8mmの自主映画『犬猫』でPFFアワード企画賞を受賞。2004年に同作を35mmでリメイクし、女性監督で初めて日本映画監督協会新人賞を受賞。『人のセックスを笑うな』(2008)や『ニシノユキヒコノ恋と冒険』(2014)等の長編作品のほか、短編作品『だれかが歌ってる』(2019)やドキュメンタリー作品『こどもが映画をつくるとき』(2021)を手がけている。
『左手に気をつけろ』
6⽉8⽇(⼟)より、渋⾕ユーロスペースほか全国順次ロードショー
20XX 年。世界では左利きを媒介するウイルスが蔓延し、こども警察による厳しい取り締まりが行われていた。行方不明になった姉を探す神戸りんは、その足取りを追うなかで“運命の人”と出会い「世界を変えていく」と意気込んでいくのだが……。
監督・脚本・編集:井口奈己
主演:名古屋愛、北口美愛、松本桂、寺田みなみ、南山真之、森岡未帆、マダムロス
撮影・仕上げ:鈴⽊昭彦
⾳楽:Yuke Myras、⼤滝充
エグゼクティブプロデューサー:⾦井久美⼦、⾦井美恵⼦
プロデューサー:⼤滝薫⼦、⼤滝雅之、増原譲⼦
制作プロダクション:合同会社ナミノリプロ
製作・配給:⼀般社団法⼈⽂化振興ネットワーク
©文化振興ネットワーク CULTURAL DEVELOPMENT NETWORK