【WEB拡大版】第48回トロント国際映画祭 『The Contestant』なすびさんインタビュー
1998年に日本のテレビで放送されたバラエティ番組を題材にしたドキュメンタリー映画『The Contestant』が、2023年9月のトロント国際映画祭でワールドプレミア上映された。この作品は、懸賞に応募して当選した景品だけで生活する企画「電波少年的懸賞生活」に出演し、1年3か月をアパートの一室に閉じ込められて過ごしたなすびさんを中心に、家族や当時の番組関係者にインタビューを実施し、当時の映像を交えてなすびさんの半生を描くドキュメンタリーとなっている。本誌では、映画が完成するまでの経緯や、懸賞生活当時から現在までの心境について、なすびさんにお話を伺った。
電波少年の懸賞生活に対する反応について
―電波少年で懸賞生活が放送されていた当時、私も笑って見ていた視聴者のひとりでしたが、『The Contestant』を拝見して一部始終を振り返ると、とんでもないことをしていたんだなと思いました。国内外の反応はいかがでしょうか。
海外のほうがそういう反応が多いですね。海外の方は電波少年という番組自体を知らないのもあると思うんですけど、予備知識が一切なくあの映像だけ観ると、なんと悲惨なことなんだろうと思われるんです。日本の方たちは、若手芸人に無茶をさせるのが電波少年の醍醐味で、あくまでバラエティ番組として面白おかしく見られるものという予備知識があって観ているので。日本ではいまだに、「また懸賞生活やらないんですか?」などと言われますよ。
―日本ではまだ映画が公開されていないから、そんなふうに軽々しく言えるのかなとも思いますが。
電波少年の懸賞生活が放送された後にもたびたび取材を受けてまして、映画で言っている僕の心情や、何度も自殺を考えたといったことも取材で吐露はしてるんです。でも、それは当時番組を見ていた人の多くが知る情報ではないと思うので、当時の印象と合致しないのかもしれませんね。映画を観た方は気づくのかもしれないですが。
当時、多くの人は、どうせバラエティだから、撮影が終わったら家に帰ってるんじゃないかと想像してたり、まさかこれを本気でやってないだろうと思ってたり、実際とのギャップがあったのかなと思いますけどね。
―これだけいろいろ言っていても、日本の反応は当時のノリのままなのでしょうか。
視聴率が30%を超えていた人気番組だったこともあり、やっぱり大半の人は面白おかしく見ていた記憶が先に立つところがあって、なかなか記憶を更新していくのは難しいのかもしれないなと思っています。
今は時代が変わって、日本もさすがにテレビ業界やマスコミ業界がいわゆるコンプライアンスに厳しくなって、確実にこういうテレビ番組はできないと思います。そんな中で日本はまだちょっと世界基準からすると緩いのかもしれない。そういうところでいうと、日本の方がこの作品を目にしたときに、ちょっと印象が変わる部分があるのかもしれませんね。
映画『The Contestant』でのインタビューについて
―今回、映画でインタビューを受けるに当たって、「懸賞生活」の昔の映像は見たのでしょうか。
インタビュー前には見ていなくて、映画のファイナルカットで改めて見ました。ただ、エベレストのクラウドファンディングで土屋さんと一緒にニコニコ動画の生放送をやったときに、放送中の振り返りで一瞬だけ過去映像を一緒に見ました。自分で過去映像を目にするのは、そのときが初めてに近いくらいでしたね。懸賞生活が終わった後に、番組を見ましたかとよく聞かれましたが、実際に見ると思うとつらい記憶がよみがえって、とてもじゃないけど見られなかった時期が長かったんです。改めて振り返ると、そのときに客観的に遠い目で、自分じゃないと仮定して見ると、これは絵的にはすごくインパクトがあるなと思いましたね。自分だと思って見るといろんな感情がこみあげてくるので。
―テレビ用に切り取られて、映像に入ってこない感情がたくさんあったのではと思います。それはインタビューで答えていたような負の感情でしょうか。
そうですね。終わった当時は、自分のつらさもそうですけど、他人の不幸を笑うような人間の根本的な部分に対して、人間不信や対人恐怖症みたいになったときがありました。
バラエティ番組で面白おかしく切り取る上で、演出でテロップや効果音をつけて、四コマ漫画のように面白く仕上げている部分があるんです。ドキュメンタリーではないので、そこに僕の苦悩を放り込む必要はないというか。そうして切り取ると面白くやっているように見えるから、見ていた人は「また懸賞生活やらないんですか」と言ってくる。みんなが面白おかしくあれを見ていたことに対する人間への恐怖感だったり、番組を面白くするためには手段を選ばないスタッフのみなさんの恐ろしさだったりが、最初に沸き上がった感情かもしれないですね。
映画『The Contestant』の始まりと復興支援への思い
―そんなところから今回の映画が完成するまでには、結構な葛藤があったのではないでしょうか。
そうですね。でも実は懸賞生活が終わってからも、年に1回か2、3年に1回くらい、海外メディアから取材を受けることがあったんです。今年もデンマークの新聞社から取材を受けました。
海外の人がネットで過去映像を見たときに、これはなんだと気になるようで。日本語が分からなくても海外の人の興味を引くものなんだなと思っていた中で、最初は10年くらい前に、クレア監督からSNSを通じて話が来ました。ドキュメンタリーフィルムを撮りたいというのは初めてで、少し話を進めていたんですが、スポンサー集めがうまくいかず、一回諦める話になりました。
でもまた数年後に、やっぱり諦めきれなくてと連絡があって。その間に、僕が東日本大震災の復興支援活動やエベレスト挑戦を並行して始めていたところもクレア監督は見ていてくれて。
僕としては、故郷の福島が原発事故の影響でどうしてもネガティブに捉えられがちなところに心を痛めていました。僕が福島・東北応援を掲げてエベレスト街道を歩いていると、海外の登山者に、「福島に人が住んでいるのか」と言われるんです。原発事故以降は、チェルノブイリと同様に死の町と化して時計の針が止まっていると思われていて。エベレスト挑戦を通じて情報発信して、福島の人たちが復興のために頑張って生きている今を海外の人に知ってもらいたいと思っていました。
そこでクレア監督に、懸賞生活だけを切り取るのでなく、僕の福島の活動に対する部分も含めてなら、と話したら、私もそこまで含めて、あなたの半生を映画にしたいと思っていると言ってくれて。それなら協力したいと思って、企画が進み始めました。
―この映画が、福島を応援するプロジェクトを知ってもらうきっかけになるかもしれないという思いもあったのでしょうか。
そうですね。最終的には、僕が「懸賞生活」で過酷な生活を経たからこそ、僕の知名度がすごく上がったんです。ならば僕が福島の復興支援をするときも注目を浴びれば、みなさんの力になれる。なすびじゃなかったら、そんなことはできてなかったと思うと、なすびになれた懸賞生活があったからこそだと思います。
震災からの復興を願うエベレストへの挑戦は、3回失敗して4度目で登頂できたんですけど、あのときの苦労が役に立ったというか。やっぱり懸賞生活がある意味人生の一番つらいときだったんで、あれを乗り越えられた俺だったらまだ頑張れるじゃないですけど、そこには過去の苦労が役に立つ部分があったと思います。
その過去は、本当につらい経験で重い十字架を背負ったなと思いますけど、それがあったからこそ強い自分になれて、福島のことに関しても、人の痛みが分かるではないですけど、気持ちを寄せて行動できるようになりました。いざ命懸けでエベレスト挑戦と登る中、あのときの自分を思えばまだまだ俺は頑張れると思えたんじゃないかな。
懸賞生活への思いと芸能界を志したきっかけ
―懸賞生活のことを、命懸けとまで見ていなかった観客は多いんじゃないかなと思いますが。
はははは(笑)。ある意味そうですよね、あれはエベレストとはちょっと違って、体力面ではなくメンタル面だとは思いますけど。
ただ、コロナ禍でみなさん経験したと思うんですけど、パンデミックで緊急事態宣言が出て世の中が止まって、ずっとひとりで部屋に閉じこもって何もできないと、精神的に非常につらかったと思います。そういう期間が続いて、みなさん外出できずにコロナ疲れみたいになっていたとき、僕はSNSを通じて、「僕が懸賞生活を1年3か月やっていたことを思えば、1か月、2か月くらい家に閉じこもっていても人間死にはしないというのをみんな見ていたと思うので、それですべてが解決できるわけじゃないですけど頑張りましょう」みたいなことを発信しました。そしたら、「なすびに言われたらしょうがねえな」とか「なすびに言われたら俺らも頑張るか、説得力が半端ない」とか反響があって。パンデミックに備えて僕は懸賞生活をやっていたわけではないものの、それがこういう形でまた活きるんだ、なんて思うと、人生無駄な経験なんてないのかなと思いましたね。まあもちろん、しなくてもいい経験もあるとは思うので、みなさんにおすすめはしませんが。
―懸賞生活は、できることならしなければ良かった経験でしたか。
そうですね。当初は僕も、役者として人を楽しませてエンターテイナーとして一旗揚げようと思って芸能界に踏み出していたんで、大きなきっかけにはなりました。でも今となっては、あれをやったことが近道だったのか遠回りだったのかわかりません。番組が終わった直後、テレビに出るときにみなさんが求めるのは、電波少年のときの裸のなすびの面白さを同じように表現することでした。ただ、僕も懸賞生活を一生やっていくわけじゃないし、裸でテレビに出続けるつもりもないので、求められるものと自分がやりたいことのギャップがすごく大きかったですね。懸賞生活が終わった当時に思ったのは、ものすごく重い十字架を背負ったなということで、もしかしたら、やらなかったほうが自分の本当に進みたい道に近づけたかもしれないという葛藤がありました。
当時の僕はまだ大学生で、なんの技術も実力もなく、ほんのちょっと芸能界をかじった程度のところで演出の力や番組の力で持ち上げられたものの、結局土台が何もできていないので、求められている技量に達していませんでした。その意味で自分の実力のなさを痛感する部分がありましたし、もう少しちゃんと下積みをやっていたら、違う自分の見せ方もあったのかもしれないかなと思います。
―そんな時代は、結構長かったんでしょうか。
どうでしょう。今でもその時代なのかもしれないですけど(笑)。最近でも、舞台に出演していても、「懸賞生活見てました。当時からずっと応援しています」というお客さんが多いですし。あと、もう25年経つのに、「なすびさん今日は服着てるんですね」とか、「服を着てる姿を初めて観ました」とか言われるんですよね。そうなると、重い十字架は重い十字架のまま背負っているけれども、僕の足腰が強くなって、その重みを軽く感じられるようになった部分があるんじゃないかなと。
あと、自分が本当にやりたいことはお笑い芸人じゃなくて、演芸や舞台を通じて笑いを届けるコメディアンや喜劇役者だったので、途中からは自分で舞台を立ち上げてやるようになりました。懸賞生活のなすびでしかなく、自分が何者かよくわからなかったけど、自分が本当にやりたいことをやらないと、人生損だなと思って。テレビにも出ないと、一発屋だとか「あの人は今」みたいな扱われ方をするのも百も承知の上で、でもそういう言葉をかける人たちが僕の生活の面倒を見てくれるわけでもないので、だったら外野の声は聞いても一意見として受け止めつつ、本当にやりたいことをやって、自分の道を開いていこうと切り替えて。舞台を中心に役者活動をやるようになったら、少なくとも舞台に立っていれば、自分は役者ですって言える。最低限の核の部分は作れるなと思っていたので。そうなってきたときに、少しずつ自信がついてきたというか、懸賞生活だけじゃない自分を表現できる場が作れました。
―喜劇役者への志は、もともと懸賞生活よりも前から持っていたのでしょうか。
そうですね。もともと僕は役者をやりたくて。『男はつらいよ』がすごく好きで、あの渥美清さんみたいな、いわゆる笑って泣ける人情喜劇の役者さんになりたいなと思っていました。子どもの頃は、テレビでドリフターズの志村さんを見て笑って楽しんでいて。僕が子どもの頃から顔が長いことでずっといじめられていたのを払拭するために、自分の顔を使って志村けんさんみたいに馬鹿なことをやったら、いじめが減ったり友達が増えたりしないかなと思って、試しに学校でやってみたら、みんなが笑ってくれて。そこから、こいつ面白い奴だなと思ってもらえて友達が増えて、いじめが減って。人を楽しませたり笑わせたりすることで自分も幸せになれるし、周りも幸せにできるかなというのが、僕が芸能界を目指す原点みたいなことでした。
役者を通じて人を笑わせたいと思ってから、大学の在学中に養成所に通ったりオーディションを受けたりしましたが、あまりうまくいきませんでした。そのとき、渥美清さんがもともとストリップ劇場の幕間でお笑いをやっていたのを知っていたので、僕はストリップ劇場ではないけど知り合いとコンビを組んでお笑いもかじってみようかと思ってやり始めたら、電波少年のオーディションにつながった形です。本当は役者をやりたかったけど、幅を広げるためにやり始めたほうで懸賞生活をやることになったので、どこかで軌道修正ししたいなと思っていました。
懸賞生活の間のギャラと出版時の印税
―懸賞生活には、オーディションで選ばれた直後にそのまま連れて行かれましたよね。そこから1年3か月、その間のギャラはどうなっていたんでしょうか。
あのオーディション自体は、若手芸人が何人かいないかということで、以前に預かりの形で仮所属していた事務所に話が来ていました。当時、僕の面倒を結構見てくれていた平井さんというマネージャーさんが、「おまえ、なんだったら顔面白いから行け」と僕に声をかけてくれて、オーディションに行きました。だから一応、事務所経由で最低限の出演料は振り込まれていました。でも僕が懸賞生活をやっている間は直接手をつけることはできなかったし、本当に急に連れて行かれたので、東京で間借りしていた家の家賃とか大学の学費とか、実はずっとかかり続けていたんですよ。僕はたまたま学生時代に、若手芸人って人気が出てもバイトができないのにギャラはさほどもらえなくて大変な時期があると先輩から聞いていたんです。じゃあ一生懸命バイトしてお金貯めておこうと、実は大学生のときに結構な金額を貯金していたので、そこから家賃は引かれていました。それがなかったら、間借りしてた家はどうなってたのかわかりません。僕は懸賞生活の初めに身ぐるみ全部はがされているので、家の鍵はマネージャーさんが持っていて、たまに風を通しに行ったり、管理してくれていたんですけど。
―懸賞生活で書いていた日記が、途中でそのまま出版されてたじゃないですか。あれはご存知だったんでしょうか。
いや、日記を書けと言われてはいたんですけど、おまえの精神状態が大丈夫かどうか確認するためのものだから毎日欠かさず書けと土屋さんに言われていたので、それが出版されるなんて夢にも思ってませんでした。
―なすびさんの著作として出版されているんですよね。
僕、いわゆる印税契約は一切していないんです。日テレさんがすでに本として出版していたので、ちゃんとした印税契約ではなくて買い取るみたいな感じですね。全部で6冊出てて80万部くらい売れたので、印税契約をしてたら、ひょっとしたらウン千万円もらえてるのかもしれないけど、とてもそんな金額は手にしてないです。
―出版されていたことは知らなくても、その後はちゃんとなされているのかなと思ってました。
ちゃんとはなされていないです。その後に日テレさんが汐留に大きな本社ビルを作りましたけど、あの柱1本くらいは僕が作ったんじゃないかなあと思ってます(笑)。当時、スポーツ新聞では10億だか20億だかの経済効果があったと言われてたらしいですね。懸賞ブームが巻き起こったらしくって。
映画に出演した家族や他の出演者のコメントについて
―この映画で、ご家族や他の出演者の方々のコメントもご覧になったと思います。こんなふうに言われているのかと思うところもあったのでしょうか。
そうですね。土屋さんには以前にもいくつか話を聞いたことがありましたが、他の方は、本当に懸賞生活の話を一度も外部に話したことがなく、土屋さんから頼まれたから今回はお話しするけど、二度とこういうことはやらないと言っている方もいました。
ディレクターさんなどは、その場にいたわけじゃなく、僕の映像を編集してた方なので、懸賞生活が終わってから、「俺、ディレクターだったんだ」と言われて、「あ、そうなんですか、初めまして」みたいな感じだったんです。だから本当に、現場で起きてたリアリティを逆に僕も初めて聞く部分がありました。
あとは、家族の中で別にNGワードじゃないですけど、あの懸賞生活のことを家族で話すことってなかったんですよ。どちらかというと家族にとっても負の記憶というか。だから、あー、やっぱり迷惑かけてたんだなとか、申し訳なかったなとか思ったりしました。
これも変な話ですけど、電波少年は生放送ではなかったので、懸賞生活のオーディションに受かって、じゃあ行こうかと連れて行かれてから1週間か10日ほど、僕が急にいなくなって音信不通になるわけですよね、世の中から。その間に行方不明となると番組側にとってまずいから、日テレさんか事務所から、「実は息子さんをお預かりしました」と実家に電話がかかってきて。「詳しいことはお話しできないんで、何月何日の放送で、電波少年という番組を見ていただければ、今息子さんがどういう状態かわかります」と、ほとんどもう誘拐みたいな電話がかかってきたと母親は言っていて。僕は一人暮らしで電波少年をたまに見たことはあったものの、家族で見ていたわけではなかったので、電話で言われて母親は初めて見たんです。そしたら、いきなり息子が裸になっているのを見てショックを受けて、そのあと一切見ていなかったと言っていましたね。姉は心配になってたまに見ていて、母親に情報を伝えたりしていたらしいんですけど、
―このドキュメンタリーで、今まで聞いたことのなかった話をたくさん聞いたのでしょうか。
そうですね。断片的な部分も含めてですけども。僕に直接なかなか言えないようなことだったり、思ってても今までは言葉にしなかったこと、伝える機会もなく人に伝えたことのないことがありました。母は、過去にも取材したいとかコメントだけくださいといった依頼はあったらしく、マスコミが何回か実家に来たらしいんですけど、一切断っていたらしいので、初めて聞いた話もいくつかありましたね。
―今改めて見て、当時思っていたことと今とで何か変わりましたか。
もう25年経ってるんで、僕もインタビューを受けて下さった関係者の方々も、思いは変わってきているところがあると思います。僕も心情を含めていろいろと変化していっているんで、言葉を受け止める僕も変わってきているというか。当時だったら受け止められなかったり違った受け止めをしてしまってたかもしれないですけど、今だったら僕のみなさんとの関係性を含めて受け止められるというか、年齢も含めて、受け止める余裕が出てきていると思います。
映画『The Contestant』の制作環境について
―今回、海外のチームと一緒にやってみて、日本のテレビ業界と何か違いを感じることはありましたか。
そうですね。今回、僕は演技をするわけではなかったので、大きな違いまでは感じなかったですね。ただ、本当に時間をかけてじっくり、僕の真意だったりインタビューする人の気持ちだったりを、必死にくみ取ろうとしてくれていました。
日本だと、いつまでに公開しなきゃならないという期限が決まっていて、それを配給会社も含めて逆算して作るっていうシステムが比較的多く、だから余裕がない。今回、コロナ禍で結局クレア監督が海外から日本に来られなかったってこともあって、日本のパスポートを持っているプロデューサーのメグミ・インマンさんが日本との橋渡し役になって、一番動いてくださったんです。そういう意味で時間的な制約はあったんですけども、丁寧に時間をかけて撮ってくれました。
僕のエベレスト登頂を手伝ってくださった国際山岳ガイドの近藤さんは、「すごいよね、幕で全部仕切って」と感心していました。インタビュアーのメグミさんとご本人だけに仕切って、スタッフさんはまったく見えないようにして、余計な雑念が入らないように、撮影だと気づかせないようにするためというか。そういうことを丁寧に、時間をかけてきちんとやっていたというのを後で聞いて、ああ、やっぱりそうだったんだと思いました。近藤さんは海外のガイドさんと交流する中で、「それはハリウッドスタイルだよ、インタビューする人が気になることを視界に入れないようにするんだよ」と聞いたそうです。プロフェッショナルだな、と思いました。
―どれくらいの期間をかけて撮影されたのでしょうか。
コロナ禍で一度中断しているので……当初、パンデミック直前に日本に行くっていう話をしてたんです。それがパンデミックで身動きが取れなくなりました。半年か1年くらい、日本に行きたいけど行けない、でも撮影しなきゃいけないからこの先どうなる、みたいな停滞期間があって。そのうち、いくらなんでも期限と予算を考えるともう本当に撮らないと、となって、じゃあクレア監督は行けないし、本当はイギリスかアメリカで現地スタッフを呼んでやりたかったけども、それも難しいから日本で、信頼できるスタッフを集めてやる、と急遽切り替えたんです。だから結局2年くらいはかかりました。
僕が最初にクレア監督と顔を合わせたのは2018年でした。そのとき、僕はイギリスに行って、じゃあテストフィルムを撮りましょう、みたいな形で。当時、たまたま日本人の知り合いが現地にいたんで、ちょっと観光がてら遊びに行くかということになって。クレア監督が本当に真剣で、企画が一度なくなりそうになってもやっぱりということだったので、一度ちゃんと会ってお話ししたいと思っていることを伝えたら、ぜひ来てくださいと。クレア監督が、周りに日本語の通訳のできる人もいるからと言ってくれて。
そのときに仮で撮ったインタビューをクレア監督がいろんな映画祭に持って行って、こういう作品にしたいと企画を持って回って、動き出したのが2018年です。だから、2年くらい中断期間もありながら、5年くらいかかりましたね。
トロントの読者へのメッセージ
―トロントの読者にメッセージがありましたらお願いします。
今回トロント国際映画祭でご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんし、衝撃を受けた方もいらっしゃると思います。
映画祭でクレア監督に託したコメントでも言ったのですが、だいたいこういう作品は本人が亡くなってから作られるものを、まだ僕が元気に生きているうちに作ってもらったので、複雑な心境の部分もあります。でも、人間ああいう過酷な経験をしたり、過去につらい経験があったりしても、いつか自分なり周りの人のために役に立つこともあるのかもしれない。それが3年や5年、10年や15年じゃわからないかもしれないけれど、いろんなことを経験していく中で、いろんな壁にぶち当たったり逆境に身を置いたりしたときに、いつかつらい経験も自分の力になったり周りの人たちを助けることになったりする可能性があると思います。
だから、僕がすごく悲惨な人生を送ってかわいそうな人間と思っている方が多いのかもしれないですけど、僕はそんなことはなくって、決して不幸な人生を歩んでいるとは今は思っていません。
紛争だったり戦争だったり、人の命が失われていく世界情勢は、自分の利益や自国の利益を追求していく利己主義で生じてしまっているのかなと思うと、僕は利他というか。世のため人のために行動することのほうが、結局自分も幸せになると思っています。生き方を見つめ直すなんていうと横柄な言い方かもしれないですけど、僕のドキュメンタリーを通じて、こんな生き方をしている人間もいるんだということで、ちょっと自分の人生を振り返ってもらえるきっかけになったらいいのかなと思います。
福島県出身。1998年から日本テレビのバラエティ番組「電波少年的懸賞生活」に出演しブレイク。その後、俳優として活躍中。東日本大震災の復興支援を目的に2013年からエベレスト登頂に挑戦し、2016年に4度目で登頂成功。2015年の挑戦時に遭遇したネパール大地震では、被災した現地の支援にも奔走し、国内外で復興支援や被災地支援を続けている。
なすびX(旧Twitter)@hamatsutomoaki
なすびInstagram @nasubi8848
監督:クレア・ティトリー
出演:なすび、土屋敏男
1998年に日本のバラエティー番組『進ぬ!電波少年』で、懸賞に応募して当選した景品のみで生活する企画が放送された。この番組で15か月間をアパートの一室に閉じ込められて暮らし、一躍有名になった男性(なすび)の実話をイギリス人監督がドキュメンタリー映画化。トロント国際映画祭でのワールドプレミア上映の後、ムンバイ映画祭、ニューヨークのDOC NYCほか世界各地の映画祭で上映されている。