余るオフィス、閑散とする街|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明
北米の商業不動産の空室率はずっと高い状態が続いている。バンクーバーでも平日、午後6時を過ぎるとアフターアワーの賑わいはかつてほどはなく、7時を過ぎれば人はガクッと減り、夜11時のダウンタウンは無人と化す時もある。レストランも多くはガラガラだ。トロントでは17%、バンクーバーでも11%を超えるこの事務所の空室率とは何なのか、そしてそれがもたらす影響にはどんなことがあるのか考えてみよう。
コロナが変えた人々の生活習慣の一つに在宅勤務がある。
日本と違い、家も広く、WiFiの環境を備えている家庭がほとんどだろう。子供の面倒も見られるし、家庭内の作業を分業したり会話も以前と比し増すことだろう。
最近は「飲み」も外で一杯ひっかけたりパブで盛り上がる時代ではなく、「宅飲み」をする人がにわかに増えている。これはメディアはまだ静かだが、そのうちトレンド入りするはずだ。
「宅飲み」が増えた理由は家の居心地がよい、これに尽きる。私は最近、レストランで食事をすることが以前の半分ぐらいになった。
理由はレストランが中途半端なのだ。価格で頑張っている店もあるが、飲めば結局60〜70ドルの出費は覚悟だ。では、何を食べたか、と言えば枝豆ではシャレにならない。
先日もパブで注文した28ドルのハンバーガーはどんな味がするのかと思いきや、チェーン店の味とさして変わらなかった。
在宅勤務はコロナ時の選択肢だったのだが、それ以降、物価高による自営が在宅をより推し進めたのではないかと考えている。つまり、私のように枝豆とビールで50ドルを払う散財者は減り、消費者は賢くなったということだ。
しかし、問題はある。
まず、事務所に行かなければ事務所のスペースは空気のようなもので、会社はそれにしぶしぶお金を払っているはずだ。リース更新の時には場所を狭くする、ないしもっと頃良い大きさを求めて引っ越しをするといった会社は多い。そうなると誰が損をするのだろうか?
事務所ビルの大家は直接的な打撃を受ける。では事務所ビルの大家は誰なのだろう?
昔は本社ビルを構えていた会社もあったが今は世界的にそれは流行らない傾向になっている。
事務所は景気に合わせて大きくなったり小さくしたりできる柔軟性が欲しい。だから自社ビルを止めて賃貸に入居するのだ。
すると事務所ビルの持ち主は必然的にREIT(不動産投資信託)か機関投資家、年金基金など巨額資産を運用しているところが主体となる。
例えばREITの場合、ざっくり話をすると50%は自分の資金を投じるが、残り50%は銀行借り入れが多い。その上、REITは儲けの90%以上を配当する仕組みになっている。
事務所ビルがガラガラになると賃料が入らないのでまずREITに投資している人への配当が無くなる。それでも資金が廻らないと銀行への元利返済ができなくなるのだ。
このところ、アメリカや日本で話題になった商業不動産向けの貸し倒れ引当金計上というのは銀行からすれば「このローン、ちょっとヤバいぞ」という時、監視対象物件となり、いざという時に備える仕組みなのだ。つまり銀行がそれを積み増しするということはこのヤバさは本格的で簡単には改善しないとみているはずだ。
これは誰が悪いわけではない。我々の生活習慣、仕事の仕方がこの4年で大変革を起こしたのだ。だが、オールドエコノミーである「仕事はオフィス、そこには摩天楼」というビジネススタイルがそう簡単に崩れるとは誰も思っていなかった。そのギャップに今、ぶち当たっているのだ。
では我々の生活はどう変化するのだろうか?
例えば在宅が増えれば一日中部屋着で過ごせるし、靴も化粧品もかばんもいらない。
それ以上にアフターアワーに「ちょっと寄っていくか?」という人が激減してしまうのだ。金融街では午後4時に相場が終わると関係者はどっと街に繰り出し、パブでビールを1、2杯飲み、仲間と駄話をして帰路に着くという人は案外多かった。が、そもそも会社に来なければパブも何もないのだ。
これは人々が普段の固定的な支出を超える小遣い、交際費的な出費が激減してしまうのだ。
この傾向はレストランの経営者には堪えるだろう。また、ショッピングはダウンタウンのモールではなくても地元のモールやオンラインで済ませることができる。とはいえ、人々は一日中家にいることは望まない。そのメリハリが週末などの行動に現れるわけで、イベントへの参加や趣味の世界に走るケースが増えてくるわけだ。
人は一人では生きていけない。
これは今後AIだろうがアバターだろうが、仮想空間だろうが、テクノロジーの発展がいくらあっても人は人を求める。現生人類のホモサピエンスは30万〜40万年前に現れたとされるが、人間の進化や変化は逆に数十万年かけてゆっくり行われたということだ。
よってこの数年で急速に進歩した技術により人間の本質が変わることはない。そして学術的に人間は群れを成すのだ。
余るオフィス、閑散とする街というタイトルがずいぶんグローバルな話になってしまったが、今我々が直面しているのは社会的変化に人間がどこまで許容できるのか、という挑戦だと考えている。これは経済的にも社会学的にも精神衛生的にも公衆衛生の面でも心理学的にも心療内科的にもとても大きなチャレンジをしていると私は思っている。
人はそれに負けない勇気と知力を持ち合わせているだろうか?
了