真夏に繰り広げられる熱い政治の物語|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明
政治が熱い。英国とフランスでは理解に苦しむ解散総選挙が行われ、共に与党は敗れた。日本では9月に自民党の総裁選と立憲民主党の党首選が行われる。また11月には注目のアメリカ大統領選が行われる。選挙の情勢を見ると現在の生活に不満を持つ国民がチェンジを模索している傾向が見て取れる。我々の生活にも影響するかもしれない選挙について少し探ってみよう。
カナダの首相、トルドー氏の支持率が下がる一方だ。
Angus ReidというNPOの調査機関が発表している政権支持率は20年5月を境に下落傾向が止まらず、現在は30%を切っている。不支持率は60%台後半にまで上昇しており、カナダ各州の首相らもトルドー政権に対して厳しいけん制をしている。中道左派自由党のトルドー氏の特徴は性格が温和でヤンチャなところがあり、いろいろ取り込もうとするのだが、へまが多いことにある。
外交ではトランプ、習近平、モディ氏らと距離があり、G7でも存在感がほとんどない。また最近発表したキャピタルゲイン課税の強化は一部の層から厳しい批判が出ている。バラマキのための資金を得るために富裕層など一部の層に対して増税する手法はポピュリストの典型であるが、個人的にはカナダ政府は見境なくばらまきをし過ぎるきらいがある。
トルドー氏が解散総選挙をしない限り、来年10月までは首相の座に留まる可能性があるが、その前に選挙の可能性はないとは言えない。理由は圧力であり、外交を含め八方ふさがりになりつつある。仮にトランプ氏が大統領になれば余計厳しい事態になる。
政治家は時として頑なになる。自分がやっていることは正しいと。信念を持つことは重要だが、国民や国家の期待と裏腹であるならそこは素直に認めるべきであろう。但し、どこの国の誰が国家元首となっても国家運営は明らかに困難、かつ国民に長期間、満足を提供するのは困難になってきていると言える。
英国やフランスに於いて国家元首が負けるのが分かっていながら解散総選挙をせざるを得なかったのは外圧と自身への信認を国民に確認する必要があったからだ。一方、バイデン氏はどれだけの外圧があろうと大統領のポジションに固執した。バイデン氏は年齢もさることながら体力的にも気力も衰えが見えたのは明らか。バイデン氏引きずり降ろしの声が高まったトランプ氏との討論会では本人が「寝そうになった」と認め、その理由が直前の欧州での会議に2度立て続けに出席して疲れたからだと。
今の国家元首は一般社会における労働へのコンプライアンスとは真逆の「24時間戦えますか?」を地で行かねばならない。
岸田首相の激務ぶりをみたらよいだろう。一体いつ休むことができるのだろうと思うほどの働きぶりだ。バイデン氏にこれから4年間のフルマラソン、気力を充実させて戦えますかと聞いてみたいところだ。
そのアメリカ大統領選だが、共和党党大会でトランプ氏が大統領候補として推挙され、またその数日前の襲撃事件で奇跡的にも耳だけのケガで収まったことで「強いアメリカ」「新風」を期待した向きがより大きくなり、世論に訴えるべく39歳と若いJDバンス氏を副大統領候補に抜擢したことは戦略的には極めて有効だと考える。これでアメリカの大統領選挙はよほどのことがない限り、終了したも同然だとみている。
では日本はどうだろうか?
私にはNO-NOゲームに見える。英国でもフランスでもアメリカでも現状に不満で対立軸への期待という形で選挙結果が展開されるが、日本の場合、自民党も嫌い、野党も嫌いというオール否定で対立軸がないことからバラバラな社会が形成されていると見ている。これは日本独特の展開だ。
日本の場合、ほぼ単一民族で農耕民族という背景が強烈な特徴で、例えていうなら換気が悪い部屋に閉じこもりながら、空気の質を論じるようなものだろう。つまり選択肢があるようでないし、新しい風に疑心暗鬼になっている。よって窓を閉め切った状態で窓の外を見ながら論評を繰り返すような絵図が見て取れる。
それもあり国民は「自由」という名の下、バラバラに行動をするのだろう。都知事選で56人も立候補した事実は選挙が終わった今、忘れ去られるところだが、なぜ、泡沫候補だとわかっているのに立候補するのか、その心理がキーであるはずだ。
自民党の総裁選びはなかなか大変だろう。本来の主流派である旧安倍派候補が幽閉され、どちらかと言えば党内のリベラル派が前線に出ているからだ。岸田氏をはじめ、今名前が上がる候補者は誰も決め手がない。現時点で予想するのは困難である。
もっと難しいのは立憲民主党の党首選で建設的意見が述べられず、批判ばかりをしてきた党としてその先頭に立っていた蓮舫氏をうまく追い出し、身内の中の身内の戦いに的が絞られたことは立憲民主党が後退しているようにすら見える。野田元首相や枝野氏の名が取りざたされる現状を見るとコマ不足役不足の感を一層強くするのである。
政治のバロメーターとは国民の満足感ともいえるが、複雑化し、主義主張がばらけ、権利義務が絡み合う社会においてそのレベルは古代アテネの民主主義の萌芽からは遠く変質化している。ばらけるのは民主主義内の自由度が上がったからであり、個々が枠組みに収まらない時代ともいえる。とすれば民を束ね、ベクトルを揃えるという政治の戦略は大いに見直さねばならない。難しい時代になったものだ。
了