「ちょうちょ」と「Apple」|頑張りましょうその日まで|時代をこえたチャレンジ:子供の言語教育石原牧子ー
そのナマの声の記憶は今でも私の頭の中で再現できる。それほど愛くるしく甘い響きの声だった。「ちょうちょ」はもちろん日本語。「Apple」は英語。確実に言葉になっていた。2歳前の娘が私に抱かれて庭に出たとき、蝶々が飛び回っていたのを見て言った娘の最初の日本語!そして家族三人で朝食をしていた時、リンゴを指さしてAppleとはっきり言った、最初の英語!
ここで言っておくが私は日本語と英語を同時に教えようとしていたわけではない。Appleはアップルとして日本語でも使われているのでその種の単語はきちんと英語の発音で聞かせていた。父親の為もある。彼も娘の持ってきたりんごを受け取ってAppleを繰り返して言う。”Yeah, it’s an apple. Good girl!”のちに彼女はAppleの本当の日本語は「りんご」であることを知るのだが。
「ちょうちょ」の少し前、娘が1歳を過ぎたころ私はオムツを変えながら、あるいは台所仕事をしながら喋り続けていた。それに対し言葉にならない音、「おートウ、マンマン、マーう〜、べチェ、ウーウー、エッて、むにゃムニヤ、ミウミウ、ダッデイ、チーチョ、ウワウワ、アプアプ…」とあたかも自分では話しているつもりのような音を娘は発していた。時には私の声を真似しているような高音を出す。言葉をクリエイトしようとしていることは確かだ。これがいずれ「ちょうちょ」になるための予行演習だったのだ。このとき彼女の脳の中で、そして舌の動きですでに言葉の基礎になるいろいろな音が試されていた。
「ちょうちょ」を口にしたのはおそらくその発音のしやすさと聞き慣れた音のせいだと思う。日本語の幼児本には蝶々がいっぱい出てくるし、有名な「ちょうちょ、ちょうちょ、なのはにとまれ」は私自身が聴いて育った昔からある歌だ。それを娘に繰り返し読んだり、歌ったりしていたからに違いない。街で幼児が「だめ〜っ!やだあ!」や「No〜!」を叫んで親を困らせている光景を見たことはないだろうか。おそらく親に繰り返し言われているのがその言葉、使ってもいい言葉として子供は覚えただけの残念な結果だと思う。ネガティブな言葉を浴びせるのは避けたいものだ。
一方通行の語りかけや寝る前の読み聞かせは欠かさず続けた。旦那が疲れていない時や休日は彼が英語の本を読み聞かせるが、基本は私の日本語。私自身日本語を話す相手がいなかったので、いい精神安定剤にもなった。オムツが取れるのは遅かったが自分でトイレに行けるようになると読めないのに絵本をトイレに持っていって便器に座るようになった娘。それほど本好きになり誕生日のプレゼントの中で一番先に手を出すのが本だった。おもちゃは後回し。周りは娘が本のページを全てめくり終わるまでバースデーケーキを見つめながら待たされることもしばしば。
余談だが、おもちゃといえば私は男女平等主義なので娘にもトラック、人形、動物のぬいぐるみなどを与えた。しかし娘が手を伸ばしたのは人形だった。どうやらこの選択は女の子に生まれた宿命的嗜好らしい。トラックを取る男児と一緒に遊ばせたらぬいぐるみの取り合いという不思議な展開になったのだが。
ある時育児評論家がこんなことを言っていた。それは幼児を多言語環境に置くと言葉を習得して話し始めるのが単一言語環境の子供と比べて遅くなる、というもの。その代わり、多言語環境で育つと分析力がつく、と。だから喋り出すのが少し遅れても気にしないことだ。いつかみんなの「ちょうちょ」がきっと出てくる。













