【世界を驚かせた8歳の鼓動、15歳の現在地】ドラマーYOYOKA が歩む海外挑戦|トロント日本映画祭 | #トロントを訪れた著名人
わずか1歳でドラムを叩き始め、5歳で家族バンド「かねあいよよか」を結成。8歳で女性ドラマーの世界的コンテスト「Hit Like A Girl」18歳以下の部で史上最年少ウィークリーチャンピオンとなり、レッド・ツェッペリンのカバー動画で世界を驚かせたYOYOKAさん。『The Ellen Show』出演、Newsweek「世界が尊敬する日本人100」選出、シンディ・ローパーとの共演など、華やかな経歴を重ねてきた。
2022年には家族と共にアメリカへ移住し、2024年には初のアルバム『For Teen』を発表。今年7月はオジーオズボーンのラストコンサートに俳優のジャックブラックと共にトリビュート演奏でビデオ参加、トロントではトムモレロとRushのギタリスト、アレックス・ライフソーンと共演など、ジャズフェスやヨーロッパ・北米ツアーも控える15歳の現在、挑戦の歩みはさらに加速している。
今回はカナダ・トロントを訪れたYOYOKAさんと父・相馬章文さんに、その歩みと今の思いを聞いた。
8歳のときに演奏したレッド・ツェッペリンのカバー動画が世界で話題
ー話題となった動画はここカナダでもニュースになったのを鮮明に覚えています。
YOYOKA: もう7年前、私が8歳のときのことです。当時はまさかこんな反響になるとは思ってもいませんでした。きっかけは、女性ドラマーのコンテストで、週ごとのチャンピオンに選ばれたことです。ただ、その時点では「ウィークリーチャンピオン」という肩書きに過ぎず、大きな話題になるとは全く思っていませんでした。ところが、コンテストが終わった後になぜかその動画が世界中で見つかり、広がっていったんです。「なんで今これが注目されているんだろう?」と自分でも不思議に感じるくらいでした。
ー当時、コンテストに応募することへの意識はあったのでしょうか?
YOYOKA: もともとコンテストが好きではなかったので、自分から応募することはあまりなかったんです。日本のドラムコンテストには何度か挑戦しましたが、結果は全然通りませんでした。そんな中で、「世界の女性ドラマーコンテスト」というものがあると聞き、「じゃあ最後にこれに応募してみようか」というくらいの気持ちで挑戦しました。結果的に、その応募動画が世界中に広がっていきましたが、当時は「優勝したい!」という気持ちよりも、ただ一つの挑戦として応募した、という感覚でした。
父・章文: その動画がきっかけで、カナダの放送局「CBC」のラジオ番組「q」に出演したレッド・ツェッペリンのボーカル、ロバート・プラントさんが、実際にYOYOKAの動画を見て褒めてくださったんです。それで一気に注目度が加速しました。カナダのこの番組には本当に感謝していますし、その後も取材していただくなどご縁が続きました。
– LED ZEPPELIN / Cover by Yoyoka, 8 year old drummer from よよか▶︎https://youtu.be/91pz1E8pAOY

ーお父さんから見て、日本のコンテストと海外のコンテストの違いをどのように感じますか?
父・章文: これは良し悪しではなく、文化や評価基準の違いがあるなと思います。海外、特にアメリカのコンテストでは「どれだけグルーヴを感じさせられるか」「体が自然に動き出すようなノリがあるか」といった部分が重視されている気がします。
一方、日本のコンテストは、テンポの速さや高度な技術、難易度の高いプレイなど、技巧面が評価の中心になっているような気がします。ただ、YOYOKAはもともとそうした超技巧的なプレイよりも、シンプルでカッコいい演奏を好んでいて、そのスタイルは今も変わりません。
もともと好きな音楽も洋楽が中心だったので、「それなら海外のコンテストの方が合うかもしれない」と軽い気持ちで応募したら、まさにフィットした。やはり評価の基準は場所によって大きく異なるのだと実感しました。
ーよく言われると思いますが、1歳でドラムを叩けるというのは驚きです。
YOYOKA: ですよね(笑)。ちゃんと足が届いていたのかは正直謎なんですけど…。スティックは長めのものを使えば一応リーチできたので、腕だけで叩いたり、ペダルは低い椅子に座ってなんとか踏めるように工夫していました。
父・章文: 本当に、なんとかやっていましたね。最初の頃は特定の曲を練習するというよりも、何も決めずに自由に家族でセッションをしていることが多かったんです。私たち夫婦はもともと音楽活動をしていて、オリジナル曲を発表するシンガーソングライター的な活動をしていました。
そんな中、夫婦でギターで弾き語りをしているとYOYOKAが2歳くらいのときに、突然ドラムで伴奏を入れてきたんです。「あれ?これならライブできるかも」と思い、4歳頃からは毎週のように一緒にライブを行うようになりました。最初からオリジナル曲が中心で、コピー曲はほとんどやらず、一緒に曲を作りながら演奏していました。
多くのドラマーは、まずは誰かの曲をコピーしたり、レッスンで曲を練習したりするところから始まると思いますが、YOYOKAの場合はいきなりオリジナルで、しかもライブばかり。ゼロから音楽を作ることを最初から続けてきたので、それが大きな経験になっていると思います。ドラムのフレーズも自分で作り、幼稚園の頃には6歳でCDをレコーディング・リリースしました。
普段は大人のミュージシャンと演奏することが多いので、同い年や同年代の人と一緒に演奏できる機会はとても貴重です。年齢の近い仲間と一緒に音を作るのは新鮮で、出会いは嬉しいですし、楽しいです。
ー今回はニューヨークとトロント、そして8月にはロンドンなど5カ国を回るヨーロッパツアーを行いますが、どんなきっかけがあったのでしょうか?また、ツアーが自分に与える影響をどのように捉えていますか?
YOYOKA: ニューヨークとトロントのきっかけは「Kids Rock For Kids」というNPO団体です。年に一度、ニューヨークを拠点に、世界中や全米各地から若く才能のあるミュージシャンを集めてフェスティバルを開催しています。今年はそのツアーの一環として、ニューヨークとカナダでの公演が組まれました。
現地のミュージシャンとのセッション形式や、他の国──例えばブラジルやヨーロッパから来たアーティストたち──との共演もあります。まるで世界中からスカウトされた才能が集まったオールスターバンドのような編成で、同世代との音楽の化学反応を楽しんでいます。
そして8月初旬にはロンドンを含むヨーロッパツアーが控えています。ロンドンから5か国を巡る予定で、私の家族バンドでの出演や、カリフォルニアで組んでいるオリジナルジャズフュージョンバンドでもジャズフェスに出演したり、各国のミュージシャンとの共演もあります。各地で違う編成、違う空気の中で演奏するのは、自分にとって大きな刺激になりそうです。
挑戦の地は世界中からアーティストが集まる「音楽の交差点」ともいえる「ロサンゼルス」
ー3年前の2022年9月に海外での挑戦が始まりました。当時を振り返るといかがでしたか?
YOYOKA: 最初の1年半は、家探しの旅のような日々でした。住める場所が全然見つからず、「どうしよう」と思いながらも、「なんとかなる」という精神で毎日を過ごしていました。友人の家などを渡り歩きライフラインのない生活を何ヶ月も送ったこともあります。LAの記録的な大雨の影響で土砂崩れに巻き込まれてて数日間閉じ込められたこともあります。どうなるかまったく分からない状況でしたが、不思議と「きっと大丈夫だろう」という気持ちは心の中にありました。
父・章文: 僕らが移住した2022年9月ころから円安が急激に進み、アメリカに到着してすぐ1ドル150円台に突入しました。私たちにはドラムを家で叩ける環境が必須なのですが、その影響もあり予定していた予算では家を借りられなくなってしまい、さらに私たちはどこかに雇われて渡米したわけではないので雇用証明や収入証明もない状態で、アメリカで必要な証明書──携帯電話契約、銀行口座、運転免許などが最初の1か月以上はなかなか取得できませんでした。いまも友人の伝手でホームシェアをさせてもらい暮らしています。
ーLAならではの自由さや刺激はありましたか?
YOYOKA: やはりハリウッドがあり、エンターテインメントの中心地でもあるので、ジャンルや国籍を問わずさまざまな人との出会いが期待できますし、実際にそうした刺激的な出会いが日常的にあります。そういう意味でも、ロサンゼルスを拠点にしたのは自然な選択でした。
不思議なことに、引越し直後で生活面が一番大変だった時期こそ、音楽活動では多くの進展がありました。例えば、家で3か月ほどガスや水道が使えない状況が続くような中で、私の大好きなロックバンド「Rage Against the Machine」のメンバーに会え、そのギタリストのトム・モレロと友人になってよく家に行くようになったりライブで共演したり。大変な日々の中で、思いがけない出会いやチャンスが訪れたのです。
周辺には歴史あるライブハウスが多く、そこで演奏する機会が自然と増えてきました。そうした場でたくさんのミュージシャンやプロデューサーと知り合いになれますし、音楽業界に限らず、映画やテレビなど他のエンタメ分野の人たちと出会うこともあります。こうした経験は、やはりロサンゼルスだからこそ得られるものだと思います。
ーアメリカでの生活や出会いの中で、自分の音楽観や表現が変わったと感じますか?
YOYOKA: 渡米直後は友人の家にホームステイするため、北カリフォルニアのオークランドで過ごしました。そこではジャズやファンク、ヒップホップが人気で、それまで私がほとんど触れてこなかったジャンルに出会いました。そこで初めてジャズやフュージョンを演奏するようになったのは、自分にとって大きな変化でしたね。
ロックはどうしても曲を通して力強く叩きがちですが、ジャズを通じて音の「強弱」をより意識するようになり、表現の幅が広がりました。結果として、できるジャンルも増え、演奏の引き出しが格段に多くなりました。オークランドに行くことは渡米前は全く予想していませんでしたが、この経験があったからこそ今の自分があると思います。
父・章文: オークランドでは現地の音楽学校にも特別に入学させてもらいました。当時は中学1年生でしたが、実力を評価してくれて、ドラム科だけ飛び級という形で高校の部にも参加させていただきました。そこでファンクやジャズなど、多彩なジャンルを学び、アラニス・モリセットのオープニングアクトを務めたり、現地の著名なミュージシャンともセッションしたりしました。
結果的に、いきなりLAに行くのではなく、まずオークランドを経由したことが人脈や経験の広がりにつながったと思います。こうした機会は、やはりアメリカならではですね。
YOYOKA: アメリカやLAでは、伝説的なバンドやアーティストのベーシストやギタリストが、小さなバーやライブハウスで間近に演奏していることがよくあります。そういう演奏をほぼ毎晩のように観に行けるのは、日本ではなかなかできないことです。
しかも演奏後に直接挨拶でき、その場でつながりが生まれることも多いです。私のこともSNSを通して知ってくれている方も多くて「LAに来たんだね、今度一緒にやろう」と声をかけてもらえることもあり、そうした出会いの積み重ねがアルバム制作にもつながりました。
私はもともと洋楽、特にイギリスやアメリカの音楽ばかり聴いて育ち、日本では「観たいアーティストがあまりいない」と感じていたんです。だから、アメリカに行くぞ!というよりも、「自分の好きな音楽がある場所に行く」という感覚に近かったかもしれません。
父と母、家族の決断
ーご家族で海外に拠点を移すという大きな決断の裏には、YOYOKAさんの才能と夢を信じる強い想いがあったかと思います。その決断には、どんな覚悟がありましたか?そして今、YOYOKAさんが成長していく姿を見て、どんな責任感や未来への希望を感じていますか?
父・章文: 正直、アメリカ移住はものすごく大変でしたし、葛藤もありました。私は長年公務員をしていましたが、その仕事を辞めて海外へ行く決断は簡単ではありません。収入面でもかなり無理をしていて、今も綱渡りのような状況です。円安の影響も大きく、カリフォルニアはただでさえ物価が高い。ですが、YOYOKAが12歳という若さで挑戦できるのは今しかないと思いました。18歳になって奨学金を取って学生として1人で渡米するといったプランが一般的ではあると思いますが、それでは彼女の吸収力や成長スピードを最大限に活かせないと感じたんです。語学も音楽も、若いほど伸びますから。
日本には才能ある若いポップスやロックの音楽家を支援する制度がほとんどなく、特に学生ビザではなくアーティストビザで行くようなプロ志向のケースは支援が皆無に近い状況です。だからこそクラウドファンディングなどを活用しながら、自分たちで道を切り開くしかありませんでした。
野茂英雄さんがメジャーに挑戦したときのように、最初に誰かが道を作らなければ、状況は変わりません。ここで挑戦しなければ、彼女が将来「行けばよかった」と後悔するのは目に見えていました。たとえ今後どんな道を選んだとしても、この挑戦だけは後悔しない。そう信じて、親として背中を押しました。
YOYOKA:日本から出ていくことが「日本からいなくなる」と捉えられがちですが、私はそうは思っていません。むしろ海外で挑戦することで、「この人、日本人なんだ」「日本ってすごいな」と思ってもらえるチャンスになるはずです。海外に出ることは、日本を離れることではなく、日本の魅力を外から発信し、もっと好きになってもらうきっかけになると考えています。
キッズから「ティーン」へ。表現するものの変化
ー小さな頃は「すごいキッズドラマー」として注目を集めましたが、いまは「表現するアーティスト」としての視点も強くなっていると思います。この移行をどう捉えていますか?
YOYOKA: 私が注目され始めた頃の年齢の子たちが、今は次々と出てきています。そういう姿を見ると、「ああ、自分も成長したんだな」と実感しますね。
ドラムを始める子も増えたように思います。でも私は、キッズが出てきたら自分の立場がなくなるとは全く思わないんです。むしろ嬉しいんです。小さい頃から「スーパー天才キッズ」とか「天才少女」みたいに呼ばれてきましたが、実はその言葉があまり好きじゃなくて。子供だけで終わる存在になりたくなかったんです。だから今、年齢というラベルが外れていくのはありがたいくらいで、むしろ都合がいいと感じています。
もちろん「これからどうなるんだろう」というプレッシャーは少しあります。でも、ドラムを叩き続けていれば大丈夫だと思っていますし、これからも前に進みたいですね。
ー若くして国際舞台に立ち、大人のプロミュージシャンや著名な方々と共演する機会も多かったと思います。そうした出会いから、将来の自分を想像することはありますか?
YOYOKA:全然しないですね。実はなりたい人や憧れている人も特にいません。幼少期はずっとマイケル・ジャクソンとプリンスが大好きで、その2人の音楽を聴き続けてきました。今も私の音楽の土台になっていますし、大好きで尊敬もしています。でも「その人になりたい」と思ったことはないんです。
よく「将来こういう人になりたいですか?」と聞かれるんですけど、私は誰かにはなれないし、自分は自分の道を作っていきたいと答えます。私と同じつながりやスキルを持っている人は、おそらく世界にいないと思うので、他の誰かをモデルに自分の未来を想像するのは難しいですよね。だからこそ、自分だけの道を歩んでいくつもりです。
ー日本にいる若い世代にとっても、海外への架け橋や扉を開く「第一人者」のような役割を担っていきたい、という思いはありますか?
YOYOKA:もちろんあります。私を見て、「あ、海外に挑戦できるんだ」って思ってもらえたり、勇気や自信を持ってもらえたり、そういうきっかけになるだけでも嬉しいですね。「こういう生き方や選択もありなんだな」と思ってもらえるような存在にはなりたいです。