「おじいちゃ〜ん!」|頑張りましょうその日まで|時代をこえたチャレンジ:子供の言語教育石原牧子ー
三年も経つと娘も日本語で幼児会話をするようになり全ては順調だった。しかし出産一週間前までフルタイムで仕事をしていた私は自分の人生に物足りなさを感じ始め、社会から置いていかれるような不安に駆られていた。そこで娘の日本語の視聴覚教育を続けながらも職場に戻ることを考え、それも以前の事務職から成長期にあったI T業務へ鞍替えする決断をし、準備のため夜間学校に通い始めることにした。夜は娘を夫に託したが、時たまプロジェクトで昼間、学校に行かなければならない時はおもちゃや毛布を車に積み込んでラボの私の足元で静かに遊ばせた。キャベッジパッチの人形が流行っていた頃だ。就職が決まり、チャレンジのある日々を過ごしながら私は自分を取り戻していった。
ナーサリースクールでいつも最後にピックアップされるのは私の娘。その時のことを思うとかわいそうないことをしたと反省している。5分遅れると20ドルのペナルティも痛かった。さて、子供は一度英語の環境に入るとスポンジのように英語を吸収していく。嵐のように押し寄せる英語の前で日本語の芽を絶対に潰さないことが肝心、と私も身を引き締めた。娘には私と話をする時は日本語で、という決まりを守ってもらった。うっかり英語で話しかけても、私が反応しないと娘は即時に日本語に切り替える。若い脳はすぐに順応する。こうでもしないと知らないうちに子供の言語は全て英語になってしまう。実際、そういう残念な結果になった家庭を多く見てきた。
日々の読み聞かせの時間に日本にいる家族の話も写真を見ながら続け、娘にはまだ見ぬ祖父母、叔父叔母に対する近親感を持たせるよう努めた。4歳を過ぎた頃親子三人で日本に行った。母は孫と会話ができるように英会話の本やCDをたくさん買いこんで勉強していた。父も内緒でNHKラジオの英会話をずっと聴いていたことは録音されたカセットテープや教本の山を見てもわかる。ところがそんな高齢者の努力などお構いなく東京の実家に着くや否や娘は初めて会う祖父をめがけて「おじいちゃ〜ん!」と叫んで走り寄り、いきなりハグをしたのである。大正生まれの人間にハグの習慣などない。驚いた父は飛び込んできた孫娘を抱き返し顔をくしゃくしゃにして満面の喜びを隠しきれずにいた。石原家の誰も見たことのない頑固親父の百万ドルの笑みだった。この時から祖父母と孫の会話は全て日本語になった。娘にとってもカナダの日本人以外の人と、それも日本の祖父母や叔父、叔母、という広い輪の中で日本語で意思疎通ができるということはかなりエキサイトな経験だったに違いない。
孫との会話に英語を使う必要がなくなった母は私の夫と簡単な英語で勉強の成果を試していた。通じるととても嬉しそうにソプラノで声だかに彼と笑っていたのを思い出す。孫に会う日まで母は私が送った写真をもとに何枚も娘を日本画に描いた。お気に入りが都知事賞を受賞し、東京都からお買い上げの打診が来たが母はそれを断ってカナダに送ってきた。宝物として今もトロントの家に飾ってある。
さて娘もそろそろ小学生。近所に歩いて行ける公立のフレンチ・イマージョンに入学した。カナダの公用語は英語とフランス語、カナダに住むなら両方できるようになれば便利だ、ならそれに乗ってみよう、という軽い気持ちからだった。私は大学でフランス語を第2外国語で取ったので小学校レベルの宿題なら見てあげられる、という思いも手伝った。実はそんな心遣いは全く無用だったが。そして娘は毎週土曜日ヘリテージランゲージ・スクールの日本語学校の一年生にもなった。





