飲食の戦士たち IN JAPAN vol.28
日本の飲食業界をリードする企業の社長の生い立ちから生き様、独立までの軌跡を紹介するシリーズ。飲食業界を志す人、将来、独立や起業を目指す人、必見。
扉を開ければ、ハッピーの始まり。
運気が上がる焼鳥屋「とさかーな」。
代表取締役社長
池田健一氏
熊本県八代市に生まれる。その後、横浜に転居し、育ちは横浜とのこと。住職の祖父の影響を受けつつ、哲学的な一面もみせるが、ビジネスにも興味津々。高校時代には、人材ビジネスを通じ、時には200万円を超える月収も手にしていたようだ。高校卒業後、コンピュータの専門学校に入り、IT企業に就職。仕事は順調だったが、在職中、阪神大震災で被災した人たちに接し、人生の転機が訪れる。それから2013年現在ではや、18年。飲食ビジネスで起業した池田は、現在「とさかーな」など6店舗、食品加工工場を1店舗経営している。
高校生、起業家。
中学を卒業した時点で商売する手もあった。「早く稼ぎたい」なら、尚更だ。しかし、その一方で、池田は、まだまだ働きたくないと高校に進学している。いっけん矛盾したように聞こえるが、池田のなかでは整合性が取れていた。というのも、高校時代にはすでにビジネスを起業していたからだ。話を聞いておどろいた。
「当時は、バブル期だったんです。とにかく人手が足らない時代です。高校には、金を稼ぎたいという奴がいっぱいいましたから口利屋のような仕事をしていたんです」。1人に付き1日当たり数千円のマージンが手に入った。忙しい月の月収は200万円にも達したという。
「そのお金はどうしたんですか?」と聞くと、「仲間を連れて、ごはんを食べたりして全部、使いました。お金は、みんなを楽しませる道具だと思っていましたから」という答えが返ってきた。
バブルという背景があったことは間違いない。それでも、高校生で起業に似たことを堂々としくみ、行った発想力と行動力には頭が下がる思いがした。就職するより、はるかにいい金になった。
ITへ、突っ走る?
「これからはコンピュータの時代だと思ったんです。だから、コンピュータの専門学校へ進みました」。ただ、専門学校でも勉強に専念したわけではなかった。サークルをつくってシーズン毎にイベントを開催した。「夏はサーフィン、秋はテニス、冬はスノボといった感じです。多いときは大型バス4台をチャーターしました。1年で800人ぐらいのメンバーを集めたと思います」。ビジネスというより、なにかを仕掛ける才能があった。
専門学校卒後は、コンピュータ会社に就職した。既定路線。いよいよIT時代、池田はそのなかを突っ走る、はずだった。
阪神大震災が転機になる。
「IT系のシステム開発企業に就職しました」。ところが半年ぐらいで外資に吸収されてしまった。
「でも、私にとっては悪いことではなかったんです。いきなり給与がポンとはねあがって、年収も700〜800万円になったんです」。そんな時に、阪神大震災が起こった。
「TVで映像を見ていました。悲惨な映像が流れていました。でも、どこか他人事だったんです。ところが、当時お客様だった銀行のデータを復旧するために、神戸に行けという指令が下りるんです。まさかあんな光景を目の当たりにするとは思ってもいませんでした」。
新幹線と在来線を乗り継ぎ、三ノ宮駅に降り立った時のことである。「他人事が、自分事にかわった」と池田は表現する。
「もう、震災が起こってから数週間は経っていました。それでも三ノ宮の駅でみた光景は悲惨を通り越し、唖然とするものばかりだったんです。老若男女、すべての人たちが、魂が抜けたようになって、目がうつろなんです。テレビで知った気になって、かわいそうだと言っていたのが、とても恥ずかしくなりました」。
池田は、人生のターニングポイントにこの日のことを挙げる。「いつまでもこれでいいのか、オレは」。生きているという事実をもっと大事にしなければと思うようになった。日々の仕事がばからしく思えてきた。それで退職を決意する。目標は起業し、社長になることだった。
「しかし、当時IT業界には、錚々たる起業家が何人も登場する時代だったんです。そういう人をみているとこりゃかなわないと思ったんです。やるからにはトップにならないと意味がない業界です」。
修業、そのはじまり。
決意と希望がとん挫するかにみえたが、一冊の本が、希望の灯を灯す。「やきとり大吉」の創業者 辻成晃氏著の「金のない人こそ商売をやれ」という本だった。もともと本好きの池田である。いっぺんに読破した。
「本っていろいろなことを教えてくれるでしょ。この本を読んで、感銘を受け、さっそく電話したんです。すると蒲田の梅屋敷の『大吉』を紹介いただきました。面接は3日後。その足で、会社に退職届を出し、3日後にはスーツを脱いでハッピを着た人生がスタートしたんです」。
800万円あった年収もあっさり捨てた。23歳という若さだけではない。潔さと決断力と同時に、類いまれな行動力も伺える。だが、池田にとっては自然な行為だったに違いない。目標が定まれば、突っ走る。金のためではない、もっと大きなもの大事なものを手に入れるために。
梅屋敷で1年修業し、焼き方を学んだ。その後、系列店を任され、1年間。こちらでは、委託店長として修業させてもらうことができた。いったん、やきとりの修業は終え、今度は、「これからは飲食もサービスで差が付く」と考え、ホテルオークラの系列会社にアルバイトとして潜り込み、3年間、サービスのイロハを学習した。
28歳。年齢的にも適齢期である。いっきに勝負に出た。「とさかーな」1号店、開店。
「とさかーな」へ行けば運気が上がる?
13.5坪の店舗。一方、10坪のセンターキッチン、15坪の本部を構えた。
「バカというかお金の無謀な使い道ですね。でも、最初から100店舗を目標に置いたんです。だから、本部もちゃんとしておきたかった。店にしても、『とさかーな』にはカウンターがないんです。照明も少し落として。ええ、BARみたいだねと言われることも少なくありません」。
「これは、私のイメージなのかもしれませんが、居酒屋って、楽しいお店も一杯あるんですが、なかにはみんなで酒を飲んで、バカ騒ぎして、グダグダ愚痴をこぼし合うみたいな、そんな感じのお店もなくはなかった。私はそういうのがキライだったもんですから、たのしく、それでいて、ゆっくりくつろいで元気がでる、そして、笑顔になって運気も上がる。そんな店をつくりたかったんです。そのイメージでできたのが、この『とさかーな』だったんです」。小さなパワースポット。しかし、それが100店ともなれば、日本中の運気が上がるに違いない。
さて、本部の家賃、立派過ぎるセンターキッチン、そんな経費を抱えながら、1号店はスタート。いきなりとはいかなかったが、3ヵ月も経てば店は軌道に乗った。
それから2013年現在で、12年が経った。池田の年齢は、40歳を超えた。決してスピード出店ではないが、地道に、着実に店舗網を拡大してきた。その一方、海外進出をはじめ、独立開業のパッケージなどもつくりあげてきた。だからこそ、いよいよ本番といきたいところである。
池田の魅力。
100店舗、海外進出、そのカギを握るのはいうまでもなく、若い人材だ。ただし、飲食事業にとって採用は大きな課題。お客様が列をつくることはあっても、応募者が列をつくることはまずない。だから、自らも、店舗もアピールしていこうと、重い腰を上げた。
「TVとか、雑誌とかの依頼も断っていたんですが、そろそろ、出てみないといけないかな、と思うようになったんです」。いいものを知らせる。それがマスコミの仕事であるなら、むろん依頼が殺到するだろう。
池田はインタビューのなかで「仕事はボクにとって楽しくて仕方がないものなんです。だから24時間没頭してもぜんぜん苦になりません。たとえば、子どもがTVゲームとかやっているでしょ。ぜんぜん苦にならない。アレといっしょなんです」といった。仕事が好きという人は大勢いるが24時間やっていたい、という人は少ない。でも、そのほかと違うところが、なんといっても池田の魅力のような気がしてならない。マスコミもそこにぜひ、そこにスポットを当ててもらいたいものだ。
最後に、東日本大震災の時、池田は店のスタッフと共に、物資2トンを一日で集めた。集めた物資は夜を徹し、スタッフたちの協力を得て仕分けし、送りだした、ということも付け加えておこう。