飲食の戦士たち IN JAPAN vol.32
日本の飲食業界をリードする企業の社長の生い立ちや生き様、独立までの軌跡を紹介するシリーズ。飲食業界を志す人、将来、独立や企業を目指す人、必見。
地方との人的交流を。〜新たな飲食事業の役割を生み育てる。〜
ティーケーエスグループ 株式会社J.fromD.(旧:神里商事) 代表取締役
樺山 重勝氏
鹿児島県阿久根市出身。県でも有数な進学校に入学したが、大学には行かず、税理士を養成する専門学校に進む。早々と資格を取得した樺山は、専門学校を中退し東京へ。オープニングスタッフの募集を観て、とあるお好み店へ。それが、ティーケーエスグループの総帥、神里 隆氏との出会い。飲食の戦士、樺山の人生はそこからスタートする。 主な業態:「チキ南亭」「まぐろ人」「とり将軍」「きちんと」他 企業HP:j-from-d.com
鹿児島県の、海沿いの町で
鹿児島県阿久根市に生まれる。夏休みになると、朝3時に叩き起こされイカ漁に駆り出されたそうだ。「そりゃイヤです。朝3時でしょ。眠いしね。でもうちに帰ったら、獲りたてのイカで造ったイカソーメンを食べられるんです。凄く旨くて、最高のご馳走でした」。
「申し訳ない言い方ですが、獲りたての、あのイカを食べ慣れた人間には、東京で出されるイカは食べられた代物じゃない(笑)」。
カサゴもテグスを垂らすだけで、調子が良ければ50〜60尾は釣れたと言っている。都会の人間からすれば、うらやましい限り。自然のなかで暮らすことで、知らないうちに「美食家なる」という話にも頷ける。
吹奏楽に魅せられて
吹奏楽部が有名な、県でも指折りの進学校だった。入学当時に限って言えば、学年3位の成績だった。「最初だけ」と樺山。最終的には500人中300位くらいまで落ち込んだ。
そもそも、勉強するつもりはなかった。大学受験も最初からあきらめていた。
「片親ですから、経済的な余裕もない。だから最初から大学進学っていうのは、頭になかったんです。代わりにというわけではありませんが、部活には真剣に取り組みました。」
有名な部だったので、周りも真剣な生徒ばかりだった。樺山のパートは、トランペット。3年になって部長となり、慣例通り、指揮者に選ばれた。
3年になると周りは大学受験に追われる。それを横目に樺山は、何をしていたんだろうか。「経済的な理由ばかりでなく、私自身、大学には行くつもりがなかった。大学を出てサラリーマンになるという、そういう既定路線を進みたくなかったんです」。
大学に進むのは、案外、簡単だ。断念すると、代わりに「決断」することが迫られる。18歳の青年にとって、簡単なことではない。
博多へ。そして、東京へ
樺山は決意通り大学には進学せず、税理士を目指して博多の専門学校に進んだ。飲食店で初めてアルバイトを経験したのは、この学生時代の話。これが、飲食に進むきっかけとなったそうだ。
「『ツンドラ』っていうロシア料理店」と樺山。ピロシキやボルシチなど、はじめて目に、耳にする旨い料理が、毎日、賄で食べられた。
「あの美味しさにすっかり魅了されてしまったんです」と樺山。
「税理士になる」という目標は、いったんお預け。樺山は、金を貯め、ともかく上京する。親許を離れ、視野が広がったぶん、行動エリアも広くなった。
たまたま明大前のお好み焼きのオープン募集を観かけた。オープニングスタッフという文字にも惹かれたのだろう。応募し、採用される。
「それが、会長との出会いです」。樺山が会長と呼ぶのは、J.fromD.(旧 神里商事)を含む、ティーケーエスグループの総帥、神里 隆氏のことである。
神里氏の下で
「親父代わりみたいな人」と、樺山は会長の神里氏をそう位置づける。「でも、最初からそう思ったわけではありません。とにかく怖い人で、毎日、怒られてばかりでした。正直、怒られてばかりだから、仕事も楽しくなくなった」という。
憧れは、いっぺんに吹き飛んだ。とはいえ、逃げ出すこともできない状況となる。
「店長が急に退職してしまいまして(笑)。アルバイトだったにも関わらず私に白羽の矢が立ったんです。社員に登用され、店長を任されてしまったんです」。
この時点ではまだ飲食で生きていこうとは考えてはいなかった。
「私が神里と出会ったのは、20歳の時です。当時、神里は専務でした。子どもの頃しか父親という存在を知らなかったもんですから、父親に対するような愛情も、親しみも抱いていたと思います。もっとも最初は、すでにお話しましたように怖い存在。しかし、いつの間にか離れない人となっていました」。
神里にとって、樺山は懐刀のような存在でもあったのだろう。当時、神里商事の子会社としてティーケーエスがあったのだが、業績が逆転し、ティーケーエスが神里商事を買収することになる。その時、神里から社長に任命されたのが、樺山だった。
株式会社 J.fromD.誕生
神里が何かにつけ、アドバイスをくれた。「助けてもらった」とも言っている。樺山に経営の才能を認め、会社のかじ取りを託した神里。
たしかに2人は、親子のようでもある。親子鷹のように互いを認め、補いつつ、2人の手によって、会社は店舗網も拡大していった。2014年、現在、樺山が初めて暖簾を潜ってからもう26年が経つ。神里商事は、2013年、社名を「株式会社 J.fromD.」に変更。いまも、ティーケーエスグループの中核を占めている。ちなみに、店舗網は首都圏を中心に広がり、食の本場であるアメリカにも1店舗だが出店している。
地方との人的な交流。樺山が打ち出す次世代の戦略
ティーケーエスグループの強みはと伺うと、「強みを表に出さないのが強み」という答え。チェーン店ではなく、「個」を磨き、個で立つ戦略である。たしかに、店舗名も統一されていない。ブランド名も異なっているから、一般の消費者からすれば、チェーン店の一つとは思わないだろう。
むろん、みせかけの話ではない。チェーンストア的な発想に立つのではなく、「個で立つ」ことを意識して、はじめて各店舗が自立した、その店なりの強みを確立することができる。それを狙ってのことに違いない。
単なるマルチブランドとも異なる、今の時代にあった発想だとも思う。更に樺山の発想は、我々の先をゆく。樺山流の、地方との交流もその一つだ。
「いまでは飲食店を出口にして一連の流れをつくり、生産者との関わりというか、飲食店が生産にまで踏み込んだような戦略を取られる会社も増えてきました。それ以外にも地方のアンテナショップ的な役割ですね、そういうケースも見受けられるようになりました」。
「ただ、私は、それはちょっと違うんじゃないかなと思っています。地方の産物を売る、それに貢献することは悪いことではありませんが、大事なことは、作り手である生産者と、我々、販売する者が交流し、互いを認め合い、育て合うことだと思うんです」。
実際、樺山は、今後の戦略の一つに地方との人的交流を挙げている。定期的に現地にも足を運んでいる。
「鹿児島に干物工場を設立します」と樺山。場所は、樺山が生まれた阿久根市だ。沖縄にTKS農場も計画中。漁業との協力で漁業体験はすでに開始している。更に、「地方の高校生を採用し、ゆくゆくは地元に戻ってもらう」と、人的な構想の一つを明かす。
そのためだけではないが、待遇の大幅な改善にも取り組んでいくそうだ。
物ではなく、人によって、地方と都会が一つになる。とても素敵な未来図だ。