飲食の戦士たち IN JAPAN vol.29
長岡祐樹氏
大阪府柏原市に生まれる。3歳年上の姉と両親の4人家族。中学1年生の時、父と母が離婚。以来、母の下で育てられる。「吉野家」人生は、アルバイトからスタート。店長、エリアマネージャーはもちろん、自ら希望し人事の仕事も経験、海外子会社の社長にも就いている。不採算店を次々、再生させてきた手腕が評価されたのだろう。再生の切り札として、株式会社「どん」に送り込まれ、常務、専務を経て、現職の社長に就任する。
企業HP:www.steak-don.co.jp
感謝の2文字で貫かれた「吉野家」、一筋の人生。
少年、長岡に与えられたミッション
母が仕事を始め、食事の調理当番は長岡の役割だった。
中学に入学したばかり、そんな少年が、家族のために慣れない料理と格闘する。遊ぶ時間よりも、洗濯物を取り込んだり、部屋の掃除をしたり、家の仕事が自分の責任となる。だが、長岡は、何ひとつ苦にならなかったと言っている。それどころか、嬉々として料理や家事に向かっている。
「母がつくってくれた料理を思い出したり、料理の本を参考にしたりして。もちろん、美味しかったかどうかは、わからない。洋食を期待して姉が買ってきた材料で肉じゃがを作ったり、期待も裏切ったと思います(笑)それでもね。疲れて帰ってきた母が、私のつくった料理を「おいしい」と言って食べてくれるんです。それが嬉しくって」
「おいしい」。母の一言が少年にとっては何よりのご褒美だった。
中学2年の時、姉が調理担当に。私は代わりに朝刊の配達を始めます。家族3人のなかで、男は長岡ひとり。男と言うことを意識すれば、女である母も姉も守るべき存在。「男は外で金を稼ぐものだ」と言う祖父の教えを全うした。
その後、長岡は大阪の高校へ進学。しかしそれは長くは続かなかった。何故なら翌年の1月つまり高校1年の冬に高校を退学するからだ。
高校1年の夏、朝夕刊の配達、集金、購読者の勧誘と仕事を増やしていく。仕事で稼ぐことが長岡の生きがいとなっていた。
北海の地で
高校在学中にも関わらず、長岡は、新聞配達の会社で社員になっていた。16歳。月に50万円も稼いでいた。「でも、ちょっと稼ぎすぎですよね。それで、母に疑いの目を向けられるんです」。
母を楽にさせたいという思いが空回りする。8ヵ月、正社員として勤務するのだが、そののち突然、北海道に渡る。
「馬がいる牧場ではたらきたくなったんです。でも、紹介された牧場にいたのは、牛ばかり。しかも、メスですから毎年出産です。朝は4時起床。休みなどありません。食事と寝るところは支給されていましたが、給与は1〜2万円です。なんなんだ、ですよね。でも、それは良かったんですが、ただ、相手は牛でしょ。コミュニケーションが取れないんです(笑)」。
「でも、不思議なもので、付き合いが長くなるとだんだん可愛くなっていくんです。一頭一頭、顔も紋様も違うんですが、その違いがわかり、識別までできるようになります。ただ、コミュニケーションができるようになっても、仕事が楽になるわけではありません。たとえば、冬ですね。雪のなかでも放牧させなければ、いい乳がでないんです。もともと牛の体温は高いもんですから、極寒の北海道でも耐えられるんですが、こっちは人間ですから、もう寒くて、寒くて。それでも、18歳まで牧場ではたらきました。18歳で大阪に戻るんですが、仕事がイヤになったわけではなく、祖父の具合が少し悪くなったからなんです」。
帰省と吉野家
大阪に戻った長岡は、喫茶店の「バーテン募集」を見て、アルバイトを開始する。オーナーは競輪の選手だったそうである。
「オーナーは遠征で不在がちなので、店の運営は私に任せてくれました。売上を伸ばす為に、ランチメニューを始め、モーニングサービスも始めました。その分売り上げは増え、給与は言い値でした(笑)」。
オーナーの弟さんが電気工事業をスタートさせたのを受け、電気工事の仕事もしました。ところが、「雨の日は仕事がないでしょ。だから強制的にパチンコ出勤。それが嫌で電気工事の仕事を辞め無職になります。当然母への仕送りは途絶え、彼女の住まいに転がり込んで、好意に甘え堕落した時間を過ごしました(笑)」。
そんなある日、「女は守らなきゃいけない」という母の言葉を思い出す。「それで、アルバイトニュースを買ったら、吉野家が載っていたんです」。
吉野家一筋の戦い
「アルバイト時代ですか?丸2年時給は上がらず、ずっと600円です。36時間勤務を終え、3時間休んで24時間勤務といった、まさしくフル稼働でした(笑)。週給6万5千円その当時のノルマでした(笑)」。「それでも全然つらくありませんでした。今から思うと既に吉野家の仕事の楽しさに取りつかれていましたね」。
やがて結婚を機に社員へなる事を決意し、さまざまな事を経験する。前任店長の辞職でチャンスが回ってきた。入社半年目で店長職を任される。「人がいなくていきなり23時から翌15時勤務でした(笑)。まあ慣れたもんですよ」
アルバイトを増やし、楽しい雰囲気で協力し合う店を作ったが、限界を感じる。
いわゆる「馴れ合い」である。組織にはあってはいけないことだったと反省する。2店舗目では、徹底したスパルタ教育で秩序と向上心のある組織を。3店舗目は、「権限移譲」でアルバイトが自ら考え動く組織を目指す。
「店舗で学んだのは、ストアマネジメントよりヒューマンマネジメントですね。良い経験を積ませていただきました」。
交通事故で、右手が動かなかったリハビリの2年間は、本部の仕事も経験したそうだ。店舗復帰後は、鬱憤を晴らすかのように、仕事に没頭。評価を勝ち取る事のみを追い求めた。「人として一番嫌な奴だったと思います。取り残された感を取り戻す事のみを追い求めたのでしょうね。若さでした(笑)」
この頃は部下達から「長岡組」と言う名称で呼ばれ、出世する為の登竜門と思われていたそうだ。
とにかくがむしゃらに働いた。四国の新規店舗立ち上げでは、丸2カ月家に帰らなかった。
阪神大震災では、陣頭指揮をとった。当時の安部社長に「よくやった」と褒めて頂いたのは、いまでもひとつの勲章だそうだ。人事制度に首を傾げ、自ら人事部に乗り込んだこともある。
2002年38歳。名古屋で営業部長に就いた。当時最年少部長である。
プライベートでは昔付き合っていた彼女とは別れ、違った女性と結婚するが、こちらも長く続かなかった。
一方、会社のなかでは次々に要職を任されるようになる。台湾吉野家の社長も経験した。赴任2年目にSARSが起こり、SARSを乗り越え業績を立て直したかに思えた時、今度は狂牛病が発生した。
さまざまな人にもあった。最初に配置された岡山では、「社会人とは何か」を教えられ、マネジメントも、経営者の有り様も、すべて、出会った上司から教えてもらったものである。
不採算事業の立て直しが、いつしか仕事になった。安部社長からは「お前が行って、ダメなら諦めるから」と送り出されたこともある。
これらが吉野家での戦いの一部である。いつのまにか、長岡は、吉野家の切り札になっていた。今回、「どん」の社長を任されたのも、そのため。「どん」という会社の白黒をハッキリとつける、そういう意味合いがあるのかもしれない。むろん、長岡は、やるつもりである。「もう少し、時間はかかりますが、そのうち打ってでますよ」。そう言って笑う長岡の顔には、ゆとりさえ伺えた。
「フォルクス」から「どん」に経営が代わり、更に「吉野家」に経営権が移り、長らく低迷しているステーキレストラン。長岡に言わせれば、再生の出口はもうすぐそこと言うことだろうか。
長岡は、こういう話もしてくれた。「職位で人を動かしたり、キャリアで人を動かそうという人もいます。でも、それは、明らかに間違いです。職位でも、キャリアでもなんでもない。人は心で動かすんです」。
人が人を動かす。古い浪花節に聞こえるが、これだけは、いまも間違いない事実である。人を動かすというのは、右に左に動かすことではない。その人の「心」を動かすことに尽きる。
長岡はそれを、身を持って体験したがゆえに、次々、再生の一手を打てるのではないか、人が彼の下で動き、育つのではないかと思った。
吉野家、一筋の人生。それは、感謝の気持ちで貫かれているともいえる。