復興カメラ
あの時、私達の故郷は一瞬にして姿を変えました。
美しかった砂浜、のどかな街並みそして幸せな日々、僕たちは大切なものをたくさん失いました。
今、故郷では必死になって復興と言う名の希望を見つけ出そうとしています。
そんな姿を記憶の中に留めたい、そして皆に伝えたい それが僕らの復興カメラ
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定点カメラ
薄れゆく記憶を留めるために
2013年から今年1月、神戸で行われた『復興カメラ』の展示は、通算12回目となった。日本中、そして世界も、自然は、時に一瞬にして多くのものを無に帰すことがあるのだ、と厳しすぎる現実を突きつけられた東日本大震災。その記憶を風化させないために、@リアスNPOサポートセンターが企画し、活動を続けている。自身が被災者でありながら、日が経つにつれ、薄れる震災の記憶。街は、瓦礫が撤去され、道路が通り、建物が再建されてゆく。忘れるのか、忘れ去りたいのか。川原康信事務局長は、今、自分が忘れないためにも、写真を撮り続け、皆に伝えている。
まんじりともせず朝を待った3月11日の夜
「我々は、3月11日に言葉に表せないような経験をしました。3月11日の凍えるような夜、この後、自分は生きているのか、もしかして死ぬのではないかと恐怖と不安の中、じっと耐える事しかできませんでした。その時、保育園の子ども達80数名と一緒の避難所にいました。初めてのお泊りが、親も知り合いもいない、先生方だけが頼りの場所でした。普段なら子ども同士で、はしゃいだり親が恋しくて泣く子もいたでしょう。でも、子ども達も何かを感じ取り、おとなしく先生方の指示に従い行動をしていました。大人の私でもかなり動揺していたのですから、子ども達はどんなに不安だったことか、今でもそれを思うと涙が出て来ます。翌朝、明るくなってはじめて、周辺が悲惨な状況になっていることを理解しました。夕べは、朝になれば、大した事ではないと自分に言い聞かせていました。」
展示を通した出会いと、心のつながり
小学校や地下鉄構内、またはギャラリーなど、展示は様々な場所で行われている。ふらりと立ち寄る人々とわざわざ観に来てくれる人々。地元出身、知人がいる、三陸に旅行したことがある、など様々だ。長岡市の展示では、大林宣彦監督が来場した。「素人写真でお恥ずかしいのですが」と話し掛けたところ、「皆さんの写真は、技術や構図はどうあれ、地元の人がありのままを撮ることで感動するのです。」と勇気をもらった。
来場者の多くが「被災地のために何もできなくてすみません。」と言う。しかし、川原事務局長は、観に来てくれることが嬉しい。写真を観て何かを感じる、そして、東日本大震災や津波が記憶に留まる、そこに写真を発信し続ける意味がある。「被災地に係わる商品を何か購入してくださいね!」と笑顔でお礼をいうと、「ありがとう、私達が勇気をもらいました。頑張ってください。」と手を握って返ってくる。直接、支援に繋がることもあるが、心が繋がることが、皆の活動の源となる。
瓦礫はなくなったけれど…。認識のギャップと地元の変化
3年9ヶ月が過ぎた現在、被災地の周りには、瓦礫はもうない。中心市街地には、イオンタウンもオープンした。東京などから訪れる人々には、復興が進んでいるように見える。だが、津波前の商店街などはほとんどなく、空き地があるだけだ。釜石市内には66ヶ所の仮設住宅団地が点在していて約5千名がまだ暮らしている。「しかしながら、大きな希望もあります。それは復興支援に携わる若者が多いということです。ボランティアもそうですが、職業として携わっている方も多くいます。三陸では、津波以前から高校を卒業すると進学や就職のために地元を離れることが少なくありません。それでも、津波後に高校生に話を聞くと復興のために地元に残りたい。大学を卒業したら地元に戻り復興に役立ちたいとの意見があります。我々にとっては大きな変化と希望です。」
起こりうる災害への警鐘として
復興が進んでいることを笑顔で伝えたいと考え、現在は努めて明るい写真を撮るようにしている。そうすることが、被災者の力になると感じているからだ。展示会を通して、津波以来音信が途絶えた被災者同士が再会する出来事があった。事の成り行きを見ていた来場者から拍手が沸き起こり、川原事務局長自身も、展示を開催して良かったと思えた瞬間だった。
災害は、再び必ずやってくる。いつなのか、場所はどこなのか、予測などできない。展示を続ける理由のひとつには、災害への警鐘もある。いずれ災害の記憶が風化してゆくことを想定し、被災地の状況を伝えることで、将来起こりうる別な災害の教訓として役立てばと考えている。実際に釜石では、津波防災教育のおかげで、子ども達の多くは被災を免れたそうだ。大人ももっと津波の恐ろしさを認知していれば、認知していたはずなのに、とやり切れない想いを今でも抱えている。
「個人の準備はもちろんですが、行政機関の準備が重要だと思います。住民のための支援、住民のための復興がどうあるべきかを考えるきっかけになって欲しいです。」