13歳の時に家出をし、料理の世界へ。トロントで数々のレストランを立ち上げ、鮨職人として名前が広く知られていく。鮨加地オーナー加地満博さん(前編)|Hiroの部屋
トロントで45年以上、寿司職人として研鑽を積み、数々の名店を生み出してきた加地さん。26歳で日本を離れ、「いつか戻る」と思いながらも、この地で寿司文化を築き上げてきた。数々の名店を手掛け、トロントの寿司文化の発展に寄与してきた加地さんの歩みは、日本食がまだ珍しかった時代から続く挑戦の歴史でもある。そんな加地さんと、長年の交流があるヒロさんが対談。料理の道を志した少年時代から、トロントでの挑戦、日本食が根付くまでの苦労、そして「鮨加地」が続く理由とは? 彼の半生と寿司職人としての哲学に迫る。
ヒロ: 僕が尊敬する大好きなトロントの大先輩、加地さんとついに対談できて、本当に光栄です。
加地: 僕がトロントに来てから45年、46年が過ぎました。26歳のときです。日本の師匠に「カナダの『Furusato』というレストランを手伝ってこい」と言われ、渡航しました。本当は何年かしたら日本に戻って師匠の店を引き継ぐ予定だったんですが、トロントのライフスタイルが心地良くて、そのまま残ってしまいました。気づけば71歳、もうすぐ72歳ですよ。
ヒロ: トロントに来て45年ですか!? 70歳を超えても現役で、寿司カウンターでは凛とした姿が印象的で、相変わらずお話される時も若々しいですよね。外見からもそのエネルギーが伝わります。
加地: その後、「Furusato」を2年で辞めて、ヒロ君のサロンがあるヨークビルの同じカンバーランド沿いに「Shougun」という店を開きました。当時はToronto StarやGlobe and Mailなどの大手新聞社に取り上げられ、長蛇の行列ができるほど話題になりました。
ヒロ: ヨークビルでの長蛇の列ということは、その時点で加地さんの名前が広まったわけですね。新しい高級店も注目を集めたのでは?
加地: そうですね。トロントの2大新聞の記者たちが取り上げてくれましたし、高級エリアだったので、大企業の社長さんたちもよく来てくれました。2年ほど経ち、オーナーとの方向性に違いが生まれた頃、「Honjin」という店が高級店をやりたいということで、「Honjin King」という店をオープンしました。この店は、大工だった親父が日本から来てくれて、約2000平方フィートの店内に畳部屋が3つ、カウンターが10席という高級店を作ってくれました。当時はすべて日本産の食材を仕入れ、夏は鮎や鱧も扱っていました。最初に「Furusato」に来た時は魚もほとんどなく、バンクーバーから冷凍のビンチョウマグロが入る程度。日本から持ってきたのは、かんぴょう、もち米、海苔、わさびくらいでした。
加地: 難しかったですね。特にコーカシアンのカナダ人には。例えば鱧を骨切りしても、日本料理の繊細さを評価してもらうのは難しかったですし、高級店というコンセプト自体が当時の市場には早すぎたのかもしれません。ランチが6ドルの時代でしたからね。店名は武田信玄が掲げた「風林火山」の一節「動かざること山の如し」から取ったんですが、最後は山が動いてしまいました(笑)。その後も「Sushi Cho」「Kuraya」「Megumi」など次々と新しいお店を開けては辞めたり、閉じたりしました。
ヒロ: そして今の「鮨加地」につながるわけですね。
加地: そうですね。そのうち自分で経営したのは2店舗だけですが、結局、私は飽き性なんでしょうね。どの店も2年くらいで離れています。そして、2000年に「鮨加地」をオープンしました。
13歳で家出。15歳の時に大阪へ。
ヒロ: ただ、ご本人のお名前がついたこの「鮨加地」はもう25年も続いています。その理由については、また後でお伺いしたいのですが、まずはトロントに来られる前の話をお聞かせください。
加地: 話は13歳の時に家出し、京都に向かったことから始まります。職業安定所に行っても、身分証明書も何もない状態で、あてもなく彷徨いました。たまたま出会った人にセールスの仕事を紹介してもらいましたが、何か違うと感じました。「結局、何がやりたいの?」と聞かれ、料理がしたいと答えたのが、この世界に入るきっかけでした。
仕事で使うバイクのために免許を取ろうとしたものの、身分証明書がない。中学も途中で家出したので卒業証明書が必要になり、一度四国の丸亀に戻って卒業式に出て、改めて単身で京都に向かいました。
大阪という街は、職人としてやっていくには、すべての料理ができなければいけません。東京では寿司だけなど専門化されていたりするんですが、大阪では「板前」として認められるには、煮方、焼き方、揚げ方、包丁など各ポジションをこなせることが求められました。昔の大阪では、幅広い技術を持つことが一流の料理人としての条件でした。
ヒロ: 「天下の台所」と言われた大阪では、「多様な料理に精通すること」が高く評価される傾向があったわけですね。
ヒロ: 人に歴史ありですね。次号の中編では飽き性だった加地さんが、なぜ今の「鮨加地」が長く続いているのか、その理由でもある奥様や家族への思いなどについて語ってもらいたいと思います。
(聞き手・文章構成TORJA編集部)
加地満博さん
鮨職人。「鮨加地」オーナー。10代のころから鮨職人としての道を歩み始め、日本各地の名店で研鑽を積んだ後、1990年代にカナダへ渡った。トロントで数々の鮨屋、日本食レストランを立ち上げ、2000年にトロントの西、エトビコに「鮨加地」をオープンした。長い間トロントで日本の鮨、「おまかせ」、日本料理文化を牽引し確固たる地位を築いている。特に伝統に根ざしながらも、独自の美学を追求した「おまかせ」スタイルは、高い評価を得ている。
Sushi Kaji Restaurant
860 The Queensway, Etobicoke
https://www.sushikaji.com/
Hiroさん
名古屋出身。日本国内のサロン数店舗を経て渡加。NYの有名サロンやVidal Sassoonの就職チャンスを断り、世界中に展開するサロンTONI&GUY(トロント店)へ就職。ワーホリ時代から著名人の担当や撮影等も経験し、一躍トップスタイリストへ。その後、日本帰国や中米滞在を経て、再びトロントのTONI&GUYへ復帰し、北米TOP10も受賞。2011年にsalon bespokeをオープン。今もサロン勤務を中心に、著名人のヘア担当やセミナー講師としても活躍中。世界的ファッション誌“ELLE(カナダ版)”にも取材された。salon bespoke
130 Cumberland St 2F647-346-8468 / salonbespoke.ca
Instagram: HAYASHI.HIRO
PV: "Hiro salon bespoke"と動画検索