800年の伝統を守る 冷泉 貴実子氏|会ってみたい京都人
千年の都「京都」。2000以上の神社仏閣を有し、世界文化遺産は17カ所を誇る日本の伝統文化を象徴する都市京都。都の中心に位置する「京都御所」は江戸時代初めから、明治維新まで天皇のお住まいであった。京都は桓武天皇が794年に平安京に都を移されたのが始まりである。「御所」の北側に「歌聖」と謳われた公卿・藤原俊成と藤原定家父子から連なる歌道宗家・冷泉家がある。
冷泉家冷泉貴実子氏の歴史
俊成、定家は日本の文学史上に大きな名を残す公卿であり、歌人として多くの人に知られている存在である。この父子をさかのぼれば、平安時代中期に全盛を誇った大権力者、藤原道長まで辿ることが出来る。定家の子、藤原為家の妻となったのが、「十六夜日記」の作者である阿仏尼で、為家と阿仏尼の間に生まれたのが為相である。定家の孫、為相が冷泉家初代となった冷泉為相である。為相は鎌倉時代初期の人であり、以来、冷泉家の家系は藤原道長の子長家から数えれば1000年、歌聖藤原俊成、定家の親子からは800年となる。冷泉貴実子氏は二十四代冷泉為任の長女として京都に生まれ、二十五代を継ぐ冷泉家に養子に入った為人と結婚した。
平安時代末期に大歌人といわれた藤原俊成は、「千載和歌集」の選者であり、歌学を修め、作者としても世に言われる幽玄体の歌風を樹立した人である。藤原定家は俊成の子で、鎌倉前期の大歌人である。「新古今和歌集」などの選にたずさわり、作者としても絢爛かつ巧緻な歌風で、新古今調を代表する歌人と目された。冷泉家に残る定家の明月記は、現在国宝に指定されている。明月記の中に「紅旗征戎(こうきせいじゅう)、吾が事にあらず」という言葉があり源平の戦いなどに組しないで自分は和歌の道を邁進するという決意があった。
さらに定家は歌人としては「小倉百人一首」を選んだ人でもある。「小倉百人一首」は近世以降、「百人一首」としても広く普及した。筆跡は「定家流」と呼ばれる書風を生み出すほど独特で、のちの世の高名な茶人などに大きな影響を与えた。現代風にいえば、マルチな才能を発揮した文化人であった。
冷泉貴美子氏の著書の数々
当時は、「公卿といえば藤原」という時代で、京都中の貴族が藤原氏ばかりで区別がつかなくなっていた。そこで、住まいのあるところの地名を家名にすることになり、一条通りに屋敷が有れば一条家、二条通りに屋敷があれば、二条家となった。この原則に従って為家の一番上の為氏が二条家、二番目の為教が京極家、三番目の為相が冷泉通りに屋敷があったことから冷泉家を名乗ることになった。やがて二条家と京極家は途絶えて冷泉家だけが藤原俊成・藤原定家の血脈と受け継いだ国の宝である数々の典籍・古文書を守り伝えることになった。公家とは天皇の側近であり官僚であった。また祭事や年中行事などの決まり事の秘伝「有職故実」の朝廷での役目があった。即ち京都文化、上方文化の力であり、権威だったのである。
「天文学と陰陽師と定家」については、天文学は国の中心的な学問と位置付けられていた。情報の先端にいたのが安部晴明である。また藤原道長は安部晴明を起用して様々なアドバイス、助言を得ていた。天文学を書き表した「明月記」については、オランダの世界的天文学者ヤン・オールト氏は「超新星」の理論の正しさを証明するために冷泉家を訪問したが、明月記の天文学の内容とオールト博士の計算とぴったり合致した。この事実は、冷泉家の月明記に残されていた。
また、江戸時代の為村の時代には(今風の通信教育による)門弟が全国に三千人もいたと言われ情報ネットワークセンターでもあった。屋敷内には国宝、重要文化財の典籍があり俊成卿、定家卿の神が祭られいる。
冷泉家にとっては「神さんは大事にせんといかん」、「粗末にしたら、バチが当たる」という教えが心の支え、生活の基本となっていた。「冷泉家の和歌」は「和歌会(うたかい)」として今日も冷泉家の活動として受け継がれている。
幼少の思い出
冷泉家の継承者として期待されていた長男が太平洋戦争で戦死したことは冷泉家にとって大きな出来事だった。終戦後に生まれた貴実子は跡取りとして可愛がられていた。母が使う公卿言葉「あそばせや」は聞き覚えがある。慶長十一年(1606)に現在の御所の北側に構えられた屋敷内では子供自転車に乗って遊んでいた。
親子間においても戦前と戦後の教育の違いは大きなものがあった。三人姉妹の長女だった冷泉貴実子が、家のすぐ裏手の同志社幼稚園へ、小学校から高校までは地元の公立学校に通った。二人の妹たちと学校の催しや文化祭に参加した。貴実子は中学校では放送クラブに所属して話すことが好きだった。大学は京都女子大学文学部東洋史学科(日本史)から大学院修士課程(日本史専攻)に進み、クラブ活動では油絵を楽しんだ。
公家のお姫さんとして、何よりも大事な「家」(冷泉家Reizei Family)として後継者への期待が大きかった。歴史ある欧州など海外旅行も好きだった。京都の伝統の中で京ことばを使う温和な面影と身の裁きには京らしさが漂う京都人(びと)である。
日本と戦火と京都の存続
先の大戦では日本中が戦火の海となり多大な被害の下、300万人もの死者が出た。にもかかわらずその事実への責任や追及の発言が無いのはなぜか。日本人の諦め精神は交渉事に弱みがある。中国では敦煌の歴史物以外は殆ど消滅している中、京都は幸い戦火が最小限だった故に、平安時代から千年前の書籍や記録が多く残っている。世界遺産である1000年前の書簡が無事に残り、京の街では数々の伝統工芸品や懐石料理、茶道や日本舞踊に、和菓子など今も200年以上続いている老舗は150余社が現存している。
冷泉貴実子氏の思い
冷泉家の玄関の屋根瓦には亀が冷泉家のシンボルとして乗っている。和歌は「感覚のキーワード」を養い、型を使って表現する「型の日本語」である。歌道の手本は、歌聖と言われる俊成卿と定家卿であり、これからも100年、200年と先人たちの証しを継承し続けて行く重責を強く感じる。
「うちの年始は御文庫の参拝から。私たちにとっては神さんの俊成さん、定家さんを礼拝する。いまも日に一度は蔵の前で手を合わせます」「けったいな家やな」と幼な心に思いつつも、成長するにつれ、平安時代から続く家の娘としての責任感も芽ばえて来た。
一方では「こんなうっとうしい家、たまらんわ」という思いも強かった。高度経済成長まっただ中の日本は、古いもの、歴史のあるものなんて誰も見向きもしなかった。昔海外を紹介するテレビ番組で兼高かおるさんの訪問記に憧れて家を飛び出して外の世界に行きたい、そんな夢もあった。だから大学に通いながら、フランス語も勉強していた。大学院の春休みにフランスに旅行。そこで目の当たりにしたのは、古い都の景観を心から愛でる人たちの姿だった。
「パリの街並み、シャンゼリゼなって有名な通りっだけじゃなくて、その裏町とかも素晴らしかった。その当時は近代的なビルはなかった。それだけでもびっくりした。日本は新しいビルに建て替えることばかり一生懸命な時代だった。京都でも、どんどん町屋が壊されていた。日本では古いものに一片の価値も見出されていなかった時代に、フランスでは歴史的なものを大切にすることが当たり前のように行われていた。子どものころ、祖母恭子から言われた言葉が脳裏をかすめた。『あんたが守っていってや』フランスに行って初めて『冷泉家って価値あるんやないか』と思い至った。帰国後、あちこち傷みの激しい冷泉家をあらてめて見て『なんとかせな、いかんな』と思った」
貴実子氏は800年の伝統を守り抜く覚悟を決めたのだった――。
歌会始のこの日、大広間には、平安の世にタイムスリップしたかのような世界が広がっていた。
「先祖が守り抜いた日本の文化を、この先また先々伝えていきたい、そう思うています」
若者たちへの提言
世界に羽ばたく若者たちの目覚めから感覚のキーワードを磨き、和歌の型を使って表現する「型の日本語」の理解を深めて欲しい。
[冷泉貴実子受賞歴]
- 旭日双光章2018年
- 京都市文化功労者表彰2025年
- 文化庁長官特別表彰2025年
[冷泉貴実子作の和歌]
- もえいる 緑の草に いななきて
- 初春はふ 野辺の若駒
[著書]
- 『日本の美のかたち』冷泉貴実子 書肆フローラ
- 『冷泉家八〇〇年の「守る力」』冷泉貴実子 集英社新書
- 『冷泉家王朝の和歌守展』 朝日新聞出版社
- 『千代の泉』 冷泉家時雨文庫、大丸松坂屋友の会
- 『The Reizei Family 』 Benrido Co。、Ltd.
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著者:市田 嘉彦
京都五条坂出身のビジネスコンサルタント。京の伝統文化、ラテン音楽、武道愛好家。座右の銘『今ここで頑張らずにいつ頑張る』京都大徳寺大仙院尾関宗園住職直伝。JAPAN TRADE INVEST(Consultant)、Former Investment Advisor at JETRO Toronto