君たちは字が読めるか?|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明
若者の活字離れがよく指摘されるが、それは若い人だけでなく中年層もふくめ、かなり広範囲の年齢層に及んできている。活字を読まなくなった理由は何なのか、また、このまま読まないことは我々の日々の生活にどう影響してくるのか、考えてみよう。
街から書店が減り続けている。ちょっと古い統計だが2006年に1万4500軒あった日本全国の書店は21年で8600軒となっている。ほぼ一直線で下がっていて年間約400軒ずつなくなっている計算なのでこれを書く現時点では8000軒を割り込んでいるかもしれない。
書籍を読まなくなった理由はいくらでも挙がるが、最大の理由は情報化が進んだことだろう。つまり書籍を読まなくても欲しい情報や知識はインターネットを検索すれば瞬時に無限に出てくるのだ。
もう1つは現代人が忙しくなったことがある。かつてのライフはシンプルだった。仕事や学校から帰り、家族で食事をし、団らんの時間があり、あとは勉強するなり、書を読むなり、音楽を聴くなり、という分かりやすさがあった。今はスケジュールが複雑に入り込み、人々の日々の生活は刺激と多忙さで翻弄されているはずだ。それでは書籍を読むのは難しかろう。
海外に住んでいるトルジャの読者の皆様には日本の出来事が遠い存在になる、ということもある。つまり日本でどれだけ流行っていてもカナダから見ると異次元なのだ。私がよく使う例え話だが、日本に住んでいた時は日本の社会面のニュースがとても気になっていたのにカナダに住むとカナダの社会面の方が気になるようになる。何故かと言えば親近感と身に迫った問題であり、日本の社会問題は海の向こうの話だからなのだ。
私はカナダで唯一、正規ルートでの日本の書籍販売事業をカナダでやっていることもあり、当然、その動向は気になる。が、それ以上に商売だけではなく、人々の物事に対する基礎知識や考えるチカラに黄色信号が灯っているように見えるのだ。
多くの人はニュースと言えばスマホでポータルサイトからニュースを見るはずだ。そのニュースの多くはエッセンス版だ。つまり私が書くこのコラムのリードの部分だけと言ってもよい。そこは数秒で読み切れる容易さがあるが、それ以上の何も与えてくれない。
例えば日本シリーズ、阪神とオリックスの激闘は今年のスポーツ界の話題の一つだろう。だが、これをシリーズ4-3で阪神が制し、38年ぶりに優勝したという事実だけを知るのがエッセンス版。関東の人にインタビューすれば「阪神が優勝したのは知っている」でそれ以上のコメントは引き出せないだろう。何故なら誰がどう活躍し、どれだけの死闘だったかは球場に応援に行った人か、テレビにしがみつかなければわからないからだ。
それらを見た人はその試合を肴に何時間でも語ることができるだろう。だが、エッセンス版しか知らない関東の人は沈黙以外の何物でもない。その違いは関西の人はこの野球に何時間も時間を割いて見続けたという事実が強い印象と人々の心を動かしたのだ。
つまり、スマホ経由で「知ったつもり」は正直、何も知ったわけではないのだ。よって何か質問されても何も答えられないであろう。浅漬けの漬物と同じ状態とも言ってよい。
私は本屋をやっているのに東京に行くと本屋巡りをし、いつの間にか大量に書籍を買っている。その場でパッと買わないと書籍などは買えないのだ。ネットで注文する場合は決め打ちの商品をクリックするのだが、私のように恒常的に書籍を読む者にとっては無尽蔵に並ぶ書店の棚からこれという本がピカッと光る。なので瞬間に「おっ、こんなところに探していた本があったぞ」と判断できる。
書籍を全く読まない人に「好きなものを探してください」と言ってもなかなか選択できないだろう。例えば食べ物に興味ない人はメニューを見てもいつまでも決められないし、ファッションに自信がなければ自分に似合うものが何かわからないので決められない。つまり、何事もそれなりの時間をかけて自分の成熟度を上げていかないと何一つ出来ないことになる。
話は大分、回り道をしたが、書籍は読む癖をつけることから始まる。大量に読む、そして好きも嫌いも関係なしで読む。そうすると多面的な知識が習得できる。そして自分で考えることができるようになる。自分の脳をフル活用する第一歩ということだ。すると次はこれを読んでみたい、という気になる。その連鎖活動が始まればもう問題はない。
私は十数年前に司馬遼太郎の書に出会った。非常に遅い出会いであったが、それは衝撃であり、そこから年に6〜7冊ずつ確実に読み進めている。100冊は優に読破しているだろう。だが、まだ氏の作品の半分にも満たない。そのおかげで自分の知る日本の歴史がいかに薄っぺらだったかを恥じた。司馬遼太郎文学の奥深さを通して日本の歴史、思想、成り立ちを改めて考えるチャンスをもらったといえる。
残念ながら最近は良書と言われる作品が少なくなったと思う。小説なら女流作家の暗く悲しいお涙頂戴型とか、いわゆるエンタテイメント系作品の方がより手に取られているようだ。それでも読んでくれるなら私は文句なしに喜ぶぞ。
時代はYouTubeよりTikTok、小説はSNSのXの140字で描く超短編が受ける時代だ。時短で動画の時代が本格化する中、ぐっとこらえて200ページで老眼鏡いらずのデカいフォントの小説を1時間半で読み切る自信をつけてみよう。映画一本分の時間だ。チャレンジしてみようではないか?
了