フランス語で復興のお手伝い|頑張りましょうその日まで|時代をこえたチャレンジ:子供の言語教育石原牧子ー
どんな出会いや機会もないがしろにできない。人生模索中の時はなんでも進んでチャンスに飛び込んで行った方が得になると私は信じている。高齢になった今でも私はその精神を失っていない。だからカナダで色々な職歴を通して社会勉強をずいぶんさせてもらったし、視野も広がった。我娘もいよいよ大学を卒業し、とりあえず落ち着きそうな政府機関に就職した。しかし事務的な仕事が多く、彼女の肌に合わなかったらしい。そこで意を決して自分から日本へ。全国で英語教室を展開する大手に就職し、着た事もないダークスーツを身にまとい、支給されたミニアパートから教室に通った。寝具を背中に背負って祖母の家から引越しする娘は楽しそうだった。
しかし、2年後、この会社が倒産。給料を受け取り娘は退散した。でもこれで良かったのだ。羽ばたく場所が次に待っていたのだから。語学力と、映画制作の経験が功をなしたのか、NHKの国際放送局に入局した。東京の祖母の家から渋谷のNHKまでの通勤が始まる。優秀なアナウンサーにも会えて刺激になったようだ。そして2011年、魔の3.11東日本大震災が襲う。渋谷のオフィスも大きく揺れ机の下にうずくまって「死にたくない」と言っていたそうだ。この時日本政府は国内に滞在している外国人を優先的に帰国させる手配をしていた。トロントで娘の安否を気遣う私たち夫婦と娘がやっとネットで繋がり、早くカナダに戻るように促す。だが彼女は「残る」と言い切った。その決断も正しかったと後になって思う。
ホンダの若い技術者たちが東北の被災地で被害に遭った自転車を修理しに行くという情報が入った。NHK国際放送局が取材することになり娘が担当した。こんな時だからこそ、思いっきり言語を役に立てよう、と思ったに違いない。取材が終わると、今度は震災で破壊された牡蠣業界から声がかかった。復興の手がかりになれば、と業界の若者たちを連れてフランスの牡蠣養殖の現場を視察に行くという。それに同行して欲しいという依頼だった。撮影プラス通訳の二刀流の仕事だ。会社が支給するという小型カメラの選択は私も手伝った。こうしてスケジュール満載の紅一点の東北牡蠣業者チーム一行はフランスへ向かった。
世界中でそうであったようにフランスでも3.11のニュースは大々的に報道され、東北牡蠣業者チームは暖かく迎えられた。フランスの牡蠣は世界的にも有名で養殖法やパッキングプロセスは日本と違う。多くの養殖所を視察し、試食もした。運命のイタズラか、娘は牡蠣が嫌い。試食をどう乗り切ったのやら…。最後に記者会見があり、フランスの報道カメラマンの撮った映像を後で見せてもらうと、テーブルに若い牡蠣漁師たちと一緒に並ぶ娘の姿があった。中央に座りテーブルと会場とで交わされる日本語とフランス語の質疑応答を一つ一つ丁寧にさばいていた。娘のフランス語が牡蠣業者の未来の橋渡しをしたイベントだった。もう言語に関しては完全に一人歩きしている。親は見守るだけだ。現在娘はモントリオールに住んでいるがNHKや東北との関係は今も続いている。
これまでの環境づくりは間違っていなかった。投げ出したいくらい嫌なことも親子であったかもしれないが、諦めなかった。先日娘のお下がりの洋服を貰いに友達がお孫さんを連れてきた。9歳のカナダ人の女の子はイタリア人の母とポーランド人の父の間に生まれ、現在フレンチイマージョンに通っている。父系の祖父母の家に行くとポーランド語で話しなさい、と言われるそうだ。つまり彼女はイタリア語、ポーランド語、英語、そしてフランス語の4ヶ国語を使って育っていくわけだ。ヨーロッパでは5ヶ国語を話す人は珍しくない。4カ国語など出来て当たり前なのかもしれない。子供ならできる。だから早いうちにどの言語で育てるのかきちんと決めて方針を立てるのがいいと思う。あとは親の揺るぎない決断とサポート次第。さあ、パパ、ママ頑張って!(完)






