沖縄(2) — 芭蕉布とピザと | 紀行家 石原牧子の思い切って『旅』第17回
「海の青さに空の青 南の風に緑葉の 芭蕉は情けに手を招く 常夏の国我した島沖縄」私の好きな沖縄民謡「芭蕉布」の一節だ。だが私にとって謎のこの芭蕉布とは一体なんなのか。この旅でそれを知る機会がやっときた。沖縄の北部、大宜味(おおぎみ)村のなかでもあまり観光地化されていない質素な喜如嘉(きじょか)というところに村立の芭蕉布会館がある。
〝芭蕉〟といえば普通の人は江戸時代前期の俳諧師、松尾芭蕉(1644-1694)のことを連想するだろう。彼は幾つかの号があったが門人から芭蕉の株を送られそれがよく茂ったので松尾芭蕉と名乗るようになったと言われる。つまり芭蕉は植物。私達もどの植物が芭蕉なのかわからなかったが、芭蕉布会館の敷地に繁殖するバナナのような植物が芭蕉なのだと教わる。
芭蕉には3種類あり、実を結ぶ実芭蕉(バナナ)、花芭蕉と糸芭蕉があり、芭蕉布になるのは糸芭蕉。芭蕉は地下茎が増え、数十年は植え替える必要はないという。しかし野生の芭蕉は繊維が硬いので今使われているのは特別の肥料を使って栽培された糸芭蕉なのだとか。
芭蕉布会館では刈り入れから織物になるまでの行程をビデオでみせてくれる。総て手作業で行われ、反物を織るまでに21工程、織ってから14工程と時間のかかる仕事だ。明治時代は庶民の生計の一部として女性が担い、当時は無地が殆どで外部に出荷されることもなかった。
喜如嘉の芭蕉布は1939年に当時の区長が三越特選品即売会で紹介したことから名が知られるようになったのだが戦争勃発で生産は中断してしまう。戦時中、岡山県倉敷市にいた喜如嘉出身の平良敏子さんは紡績工場で織物や染色を学び、芭蕉布復興に生涯をかけることを決意。工芸品として優れた作品の数々を作り受賞に輝いた。
甲斐あって喜如嘉の芭蕉布は1974年に国指定の重要無形文化財となり彼女は〝喜如嘉の芭蕉布保存会〟の代表に認定される。その彼女が今も会館の2階で細い糸を繋ぐ作業をしているのだ。糸芭蕉の繊維の長さは着物の反物程長くはない。その繊維から出来た極細の糸をつなぎ目が分からない様に繋ぐという神業を彼女が一本一本やっているのだ。95歳を過ぎ高齢で耳が不自由だと聞いていたので話をうかがうことは出来なかったが、帰り際にお礼を言うと少し顔をこちらに向けて頭を下げられた。感動的な無言の対面だった。
作業場は撮影禁止だったが、灰汁で繊維を煮る煮認(にーがし)の仕事をしている人が作業の写真を撮らせてくれた。別の部屋では静岡から来たという若い女性が幾つもの大きな壷のまえで水洗い作業をしていた。芭蕉布に魅せられて修行をしているという。平良敏子さんの後を継ぐ人材は何人いるのだろう。生きているうちに芭蕉布を母にも見せたかった。
沖縄で一番東シナ海に突き出ている本町(もとぶ)半島の先ッチョにある高台に素敵なピザ屋、花人逢(かじんほう)がある。沖縄古民家のユニークな佇まいは予約制ではないのでシーズン中は列が出来る程の人気スポット。近隣の伊江島、瀬底島、水納島も一望できる。ひめゆり資料館(3月号参照)で涙を流した母がもしここから大海原をみたら何と言うだろうか。戦争時代を無事生きぬいてこられたことを不思議に思うだろうか。
近年日本の観光地は〝体験〟を売り物にしている。沖縄も例外ではない。我々も沖縄のガラス工芸と藍染め体験をすることにした。ガラスは危ないので2、3人の職人さんが道具を一緒に持ってくれる。色はピンク、紫、赤は値段が高く、緑や黄色は安い。私は母の好きな紫色で小さな花瓶が作りたかったが仕上がりは青のサプライズ。母が染色をやっていたのにちなんで娘は染色にも挑んだ。それぞれの思いがつまった沖縄旅行を終え私達は空港に向かう。
石原牧子
オンタリオ州政府機関でITマネジャーを経て独立。テレビカメラマン、映像作家、コラムライターとして活動。代表作にColonel’s Daugher (CBC Radio)、Generations(OMNITV)、The Last Chapter(TVF グランプリ・最優秀賞受賞)、写真個展『偶然と必然の間』東京、雑誌ビッツ『サンドウイッチのなかみ』。3.11震災ドキュメント“『長面』きえた故郷”は全国巡回上映中。PPOC正会員、日本FP協会会員。
www.nagatsurahomewithoutland.com