沖縄(1) — ひめゆり学徒 | 紀行家 石原牧子の思い切って『旅』第16回
平成初期に母と来た沖縄。しっとりと生暖かい南国の空気が私達を迎える。大正時代の異物のようにボロボロだった那覇は長い歳月をかけやっと何処の都市とも変わらない街になっていた。北へ車で約1時間半。細長い沖縄本島の一番狭まったところを過ぎると美しい恩納(おんな)村の海岸にでる。友人が働く老舗のホテルで数日間お世話になることになった。立地条件は抜群だ。エメラルドグリーンに輝く東シナ海は一昔前に壮絶な沖縄戦が繰り広げられたとは思えない程一面の平和色。バルコニーにやさしく届くここちよい波の音を聞きながら矛盾した沖縄の過去を少し考えてみる。
1月でも気温は20度。人も船もみえない大海原。こんな美しい海に囲まれた沖縄には日本人が忘れてはならない過去がある。戦争末期、日本は米軍の日本国本土上陸を一日でも阻止するため沖縄を〝捨て石〟にした。無防備な県民が遠く海原に米軍の戦艦を何隻も見た時の震え上がるような恐ろしさは誰にも想像つくまい。私達は恩納村を拠点に戦時下の沖縄と沖縄の文化という二つの目的をもって訪れた。沖縄北部を巡った後、戦地沖縄の一記録をたどるべく南へ走る。
生前、母の希望で〝ひめゆりの塔〟と隣接の〝ひめゆり平和祈念資料館〟を訪問した時、犠牲者となった女学生の手記を読みながら母が孫のそばで泣いていた。今回は成人した娘と友人が私に同行する。若い二人にとっては初めて知る沖縄戦だ。残念なのはレンタカーの受付嬢はその塔がどこにあるか、何なのか知らなかった。パンフレットで塔の記載はみつけたものの、資料館はどれにも載ってなかった。はて、閉館になってしまったのか、と重い気持ちになる。載っていたのは〝沖縄平和祈念資料館〟。同じ糸満市にあり沖縄戦没者墓苑と一緒に広大な沖縄戦跡国定公園の太平洋側にある。合併されてしまったのか?
私はどうしても〝ひめゆり平和祈念資料館〟の存在を確かめたかった。ガマと呼ばれる自然洞窟の軍事病院跡があり学徒達が看護、水汲み、伝令、食料運搬係として働いた。その記録の全てが結集されているからだ。
戦後村民によって建てられた学徒戦没者の慰霊碑がひめゆりの塔。沖縄出身のハワイ二世、儀間(ぎま)真一氏が寄贈した敷地にあり、今も民間「ひめゆり同窓会」が管理している。それに、あった!あった!〝ひめゆり平和祈念資料館〟が塔の先に。リニューアルされ、洞窟病院の実物大が館内にある。最高齢者となった数少ない生存者の生々しいビデオ証言もある。
魔の90日間、何が起こったのか。米軍上陸作戦開始とともに、日本は1945年3月23日に異例の県民総動員を発令する。が、戦況は悪化するばかり。沖縄は徹底的な攻撃をうけ、6月には首里の日本司令軍が落ち、撤退命令が出された。学徒も負傷兵も戦火をぬって南下。そしてここ陸軍第三外科壕が最後の避難所の一つになる。悲惨にもこの穴は6月18日米軍の爆弾を受け100名中80余人が死亡した。
日本は突然「解散」命令を出し、放り出された負傷兵、看護婦、学徒等は逃げる途中で爆撃に合ったり、海岸から身を投げたり、自決したりで次々に命を落としていった。無責任な「解散」命令は[米軍が戦闘機に操縦士を守る為の金属板を搭載していたのに対し日本は金属板を外し機体を軽くして遠方まで飛行させ操縦士もろとも敵陣に体当たりさせた]のに似ている。自国民の命を守ろうとしない国に戦士を送る資格も民間人を巻き添えにする資格もない。資料館を出た二人の若者は暫く言葉を失っていた。
夜は新装開店の居酒屋へ。沖縄名物のジーマミー豆腐とアイスプラントの食感はいまも口に残る。プロのサンシン奏者、名城一幸氏が演奏する沖縄民謡に色々な思いがこみ上げる。東京でも演奏会をするという彼の歌声はハリがあって力強く頼もしい。その響きは新しい沖縄を物語っているかのようにも思えた。
石原牧子
オンタリオ州政府機関でITマネジャーを経て独立。テレビカメラマン、映像作家、コラムライターとして活動。代表作にColonel’s Daugher (CBC Radio)、Generations(OMNITV)、The Last Chapter(TVF グランプリ・最優秀賞受賞)、写真個展『偶然と必然の間』東京、雑誌ビッツ『サンドウイッチのなかみ』。3.11震災ドキュメント“『長面』きえた故郷”は全国巡回上映中。PPOC正会員、日本FP協会会員。
www.nagatsurahomewithoutland.com