【特別寄稿】永遠の愛を込めて。順子の人生と思い出 山本 宗一郎

順子は1943年3月22日に、二木医院を経営する裕福な医師、二木健一氏の一男二女の長女として長野県松本市で生まれました。幼少の頃は病弱気味だったと聞いています。松本市の名門校である深志高校を卒業後、信州大学に進みましたが、英語が好きで早く英語を使う仕事に就きたいと、大学を中退し東京の文部省の通訳養成所に転校、英文速記やタイプに加えて、公認の通訳免許を取得して卒業し、1963年5月より日本クライスラー社の社長秘書に就任しました。1964年の7月に、訪日していたクライスラーと日産自動車の中近東代理店社長を接待する為に箱根巡りをした際に、日産を代表して参加した僕、宗一郎と知り合い、翌年1965年5月に赤坂の霊南坂教会で式を上げ結婚しました。
1965年10月に、2年間の世界一周新婚旅行を目して羽田空港を飛び立ち、途中、バンコクとサウジアラビアのダハランで日産代理店の要請で仕事をしたり、22ケ国を周遊し、丁度一年後の10月1日に、トロントにほぼ破産状態で到着しました。当時景気の良かったトロントですが、順子はカナダに於ける経験がなかった事で秘書の仕事に就くことが出来ず、生命保険会社カナダ・ライフの経理部に事務員として就職し、僕は、トヨタ・カナダの前身であるCMI社にサービス部長として就職しました。住んでみると、住み易いトロントが二人共気に入って、トロントを第二の祖国とする決心をしましたが二人とも全く後悔はありませんでした。
順子は一年後に念願の転職をし、サン・オイル(Sunoco本社)の経理部長の秘書になり、長男の譲治が生まれる1970年10月の少し前まで働いていました。二人で1969年から準備していた日本行きチャーター便運航のビジネスが、大阪エキスポのあった1970年より本格化し、実務を担当していた順子は、目が回るほどの忙しさでした。日本行き往復や片道の格安航空券は、日系社会で大変に歓迎され、毎年千人を超える人々に利用して頂きましたが、カナダ政府がその種のチャーター便を禁止したため、この事業は4年で中止せざるを得ませんでした。しかし、お蔭で次の事業の資本金を蓄積する事が出来たのは幸いでした。1973年8月には次男宏治も誕生しました。
私は日本の出資者の後援とパートナーを得て、1970年から数年で、日本料理店「日本の味」、「富士」、「太鼓寿司」、土産物店「メープル・ギフト」、旅行社「東京ツアーズ」、機械輸出商社「富士貿易」を次々と開設し、続いて、サンフランシスコに毛皮店「メープル・ファー」、ロサンゼルスに合弁会社「カキヌマUSA」、バッファロー市に日本のピップ藤本社との合弁会社「Physio Meditech Corp.」を設立しましたが、これらは順子の協力があって出来た事でした。しかし、子供たちが父親を必要とする時期になって来た事に加え、技術者である自分に合った事業をしたいという切なる思いで、1978年頃から、機械輸出商社を除く全ての事業を売却或いは譲渡しました。
順子は勉強好きで、仕事に必要だろうと2年以上にわたり経理のコースを取っていました。また、趣味として吉村作治先生のサイバー大学に入学し、考古学も2年間学んでいました。

順子が実務担当していた機械輸出商社はカナダ製の精密機器の輸出で業績を上げ、1995年には中国に支社を開設し着実に実績を伸ばしましたが、2015年にメーカーとの専売契約が終了し43年間の輝かしい幕を閉じました。僕は、その間1980年に、念願であった環境関連機器の製造販売を行うUNI-RAM株式会社をマーカム市に設立し、順調に業績を上げて来ましたが、順子は同社の財務・人事担当の副社長として、僕を支え続けてくれました。
二人で1990年に「山本基金」を設立して以来、数々の慈善活動を続けています。2000年に友人であるシド池田氏の勧めで夫婦でロータリー・クラブの会員になり、順子は海外慈善事業の担当として、多くの後進国に於ける慈善活動に参加して来ました。其の功績で、順子は栄誉ある「ポール・ハリス賞」を2度も受賞しています。順子は2001年に国際慈善事業の専門家であるトンプソン博士の案内で、貧困にあえぐ東南アジア諸国を視察して回った折に、インドに於ける放棄された孤児たちの惨状を知り、孤児院を設立する事を決意しました。チェンナイ市の郊外に土地を購入、ロータリークラブその他の慈善団体の協力もあり、2002年に2階建ての家が完成し、28人の孤児を収容して「Paadai House」が発足しました。それ以降、長年にわたり経営を支援して来ました。現在では、40人以上の孤児たちを3階建ての家に収容しています。順子はネパールのポカラ市では心身障碍者用の学校の建立にも参加しています。これらの資金援助を目的として、順子の親友の田中陽子さん(田中克之元総領事夫人)の主催される声楽教室の後援・共催で、スペインのマドリッドと東京で数回の慈善コンサートを開催し、高円宮妃の御臨席も得て毎回満席の大成功となりました。

順子は2010年にジャパニーズ・ソーシャル・サービス(JSS)にファンドレイジング担当理事として参加し、その活動に情熱を注いで来ました。そして、映画会、慈善コンサート、マジックショー、その他毎年数多くの募金活動を成功させ来ました。加えてJCCCやJSS等の日系団体だけでなく多くの慈善団体に寛大な寄付を続けて来ました。
2020年7月に春から軽い咳が続いていたために受けた精密検査で、非小細胞肺癌(細胞突然異変に起因するEGFR型肺腺癌の第4期)と診断されました。それ以降、抗癌剤、化学療法、放射線療法、免疫療法等を連続的に受けて来ました。順子は2021年の6月末でUNI-RAM社の副社長を退任しましたが、その当時は一緒に散歩をしたり買い物をしたり、極めて普通の日常生活を送っていました。
9月16日から5日間の入院精密検査の後、主治医と面会し「今まで行ったどの治療も顕著な効果が認められず、これ以上出来る治療はない」と宣告を受け、二人にとって大変なショックでした。順子は「恵まれた人生だったので、思い残すこともないし死ぬのは少しも怖くないけれど、苦しむのは嫌だわ」と達観した様な事を言っていました。しかし、そこまで諦めがつく迄に、愛する人々を後に残して死ななければならない口惜しさや色々の心の葛藤があったに違いありません。
ある日台所で傍に立っていた順子が「ダンスしよう!」とくっ付いて来て、「こんな病気になってごめんね」と言って僕の胸にすがって長らく泣きじゃくっていたことがありました。僕も何にもして上げられない自分の不甲斐なさを呪って涙が止まりませんでした。それ以降も、順子がテーブルに伏せて号泣していた事が二度ほどありましたが、慟哭する順子の瘦細った背中をそっと撫でながら、その心中の計り知れない口惜しさと悲しさを思うと不憫さで、耐え難く深い悲しみを味わいました。
順子は11月12日(金)の午後9時半に、長男、譲治と僕の見守る中、僕の手を確りと握りながら安らかに帰らぬ人になりました。亡くなる直前まで、陽気で明るく振舞い、殆どの友人は、彼女の病状に思いもつかなかったでしょう。生前に、親しい友人で自分の葬儀のためのチームを組織し、全てを自分ですっかり準備してからの彼女らしい旅立ちでした。
順子の78年余の人生は、目まぐるしい忙しさではあったものの、日本中だけでなく、世界の多くの国々を一緒に旅をしたり、やりたい事に邁進出来たりと、公私とも本当に充実した幸福な人生であったと思います。
順子は二児の良き母であり、美しく賢明な自慢の妻であり、頼りになる仕事上のパートナーでもありました。
何事にも一生懸命、とことん真剣に取り組んだ順子。先頭に立って物事をどんどん進める実行力のある順子。いつもポジティブで陽気な明るい順子。何でも人にあげるのが好きだった気前のいい順子。何処でもシャンとして颯爽と振舞っていた格好いい順子。そのくせ、意外に甘えん坊で涙もろかった可愛い順子。ちょっと慌て者で早とちりの順子。どれも皆、大好きな、大好きな順子でした。
順子、56年余の愛と思いやりに満ちた幸福な結婚生活と、多くの美しい思い出を本当に有難う。そして、多くの心豊かな素晴らしい友人達を残してくれて本当に、本当に有難う。
永遠の愛を込めて。
山本 宗一郎















