vol.9|『夕暮れに夜明けの歌を』|翻訳の窓から – 書評で読む世界

人と人を分断するような言葉には注意しなさい」
──レフ・トルストイ
将来の道を決めるとき、語学習得も視野に入れる人は多いが、ロシア語を選ぶ人は少ないだろう。著者の奈倉有里さんはその希少なひとり。2002年にロシアに留学し、ロシア文学を浴びるように学んで日本に帰国。その後は翻訳者、研究者として活躍するかたわら、このエッセイ、『夕暮れに夜明けの歌を──文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)を執筆し、約7年間続いた留学時代を振り返っている。
ロシアで文学を学んでいたときの、奈倉さんのノートの取り方や、研究テーマの探り方、ロシア語との向き合い方、そして、彼女のまっすぐな学究心に応える先生たち、勉強ばかりの彼女を外に引っぱり出してくれる友人たちとのほのぼのとした交流に、留学経験のある人なら過去の自分を思い出すことだろう。
ロシアと敵対する勢力圏に住んでいると、普通のロシア人の生活を知る機会は少ない。奈倉さんの目を通し、ロシア人の温かい人情を感じたかと思えば、ソ連崩壊後の知られざる国内事情や、旧ソ連構成国とロシアの関係、強いロシアの復活をめぐる思想のぶつかり合いに背筋が凍ることも。そして、そうしたぶつかり合いは、言葉を乱暴に使うことから始まるのを彼女は見逃さない。
奈倉さんにとってのロシア語は第二言語だからこそ、傍観者として、言葉の運用を観察できるのだろう。最終章に近づくと、ウクライナとロシアの問題が書かれていて、冒頭のトルストイの引用がずしんと心に響く。奈倉さんのプライベートでも意外で、切ない展開が待っている。
同時通訳訳者の故米原万里さんのエッセイが好きだった人や、文学研究や翻訳を目指す人、ロシア文化に関心のある人には特におすすめ。いや、奈倉さんの文章力がすばらしいから、みんなにおすすめしたい。
ちなみに、奈倉有里さんは『同志少女よ 敵を撃て』を書いた逢坂冬馬さんのお姉さんです。

新田享子
書評家・豊﨑由美を師と仰ぐ翻訳文学書評グループBookpottersのメンバー。国際政治、文芸理論、歴史衣装など縦横無尽にさまざまな分野の書籍を訳す英日翻訳者。kyokonitta.com





