エンタメ三昧 - 連載100回分の回顧録|世界でエンタメ三昧【第99回】
丸9年、全100回、月1回投稿し続けたエンタメ修練の場
本連載は第100回、次回の2023年1月号をもって終了いたします。TORJA(トロントジャーナル)で「カナダでゲーム屋三昧」を連載し始めたのが2014年3月。思ってみればまだカナダ赴任前で、バンダイナムコとの協業開発先を探し、オフィスもバンクーバーに構えようか、それともモントリオールかトロントか、と探している時期でした。極寒のトロントは死ぬほど寒く、マイナス10度の「果ての地」に思えたこの場所で、現地の日本人経営者たちの集いに混ぜてもらって、出会ったのが同じリクルート出身の編集長塩原さんでした。
当時僕は「孤独」でした。慣れない英語で、かなり大きな会社のかなり大事なミッションを背負って、全く土地勘のないトロントやモントリオール、ケベック、果てはノバスコシアやマニトバ、カルガリーのゲーム会社にまで足をのばして開発交渉を仕掛けました。どこと組めば世界を覇するビックタイトルが生めるだろうか。子供も2歳で生まれたばかり、2週間ごとに日本とカナダをいったりきたりしながら、人生で経験したことがないような極寒の地で、毎日毎日のアポイントをこなす旅先で出会った日本人とそのあたたかな集いは、見知らぬ地でのかがり火のようにも思えました。アメリカの開拓時代の若者たちはこんな気持ちだったんじゃないか、とも妄想しました。開拓者は90%の孤独をかかえながら、それゆえに稀に出会う同朋との強い結びつきを10%の糧として生き抜いてきたんじゃないだろうか、など。大げさに聞こえるかもしれませんが、トロントにいた僕はそのくらい、人生で見たこともない絶海的な場所で絶対的な孤独を感じていました。
僕自身が大学院でガツガツ論文を書いていたり、『ソーシャルゲームだけはなぜ儲かるのか?』(PHP研究所、2012)など商業本も書いていましたので、塩原さんと意気投合し、二つ返事で連載を始めます。なにせカナダは日本からみれば「辺境」、定期的な発信をしていかないと、「なんかアメリカのほうに赴任したアイツ」みたいな感じであっという間に忘れ去られてしまうだろうという危惧もありました。
そのときは全く思いもよりませんでした。まさかそこから9年間かけて100回連載まで続くなんて!まさかその後、バンクーバーからシンガポールに転任したうえでブシロードに転職して、なおかつ起業までしているなんて!!「カナダでゲーム屋三昧」で始まった本連載は2016年1月にシンガポールに転任したタイミングで「世界でゲーム屋三昧」となります。しばらく連載が続けられなかった時期もちょっとありつつ、16年9月にそのままブシロード・インターナショナルに赴任者から赴任者に転職したときにはゲームだけでなく、トレーディングカードや音楽ライブコンテンツ、プロレスなども事業に加わったので「世界でエンタメ三昧」と再び変わって現在に至ります。この2回衣替えをしたタイトルが、21年7月にそのブシロードも退職してエンタメ専業のコンサル会社Re entertainmentを設立したときに「エンタメ社会学者」を名乗る土台となりました。
何万人もの読者がいるわけでもない、ヤフートピックで取り上げられるわけじゃない、反響もさしてない(笑)この連載、こんな回顧録など残す間もなく、さっと「今回終了です」と終わらせたって、別にいいものなんです。本当は。でも僕以上にこの連載を大事に思い、僕以上にこの連載によって人生を変えられた人はいないはずなんです。作者の僕がこうして心情を吐露し、それがどんな社会的・個人的意味をもったものかを大事に「供養」しない限り、この連載はあっという間に情報の渦のなかで歴史から抹消されます。読んでくれていた方々には感謝に絶えませんが、やっぱり僕の、僕による、僕のための連載だったんです。
これまでゲームもアニメも興行も、IP(知的財産)として作品を創り上げてきた人たちと多くやりとりしてきました。彼ら彼女らもやっぱり自身以上にその作品に思い入れを持っている人は世界中探してもいないだろうという勢いで創り上げていました。それが大ヒット作であれ、誰も知られることなく閉じる失敗作であれ。「エンタメ三昧」もまったく同じなんだなあと思います。もっと売れた本もあるし、何万人にもバズるような記事もありました。でもTORJAの「エンタメ三昧」は長男長女として書き手としての僕を生かしていくれた大事な場所でした。
じゃあやめなきゃいいじゃん!10年でも20年でも書き続ければ!という声もあるかもしれません。いや、ないか笑。社会人キャリア17年、5回も転職してきた自分としては「手放すことの大事さ」もまた学んでいます。慣れた場所、活躍できる場所を離れるのは実は結構今でもコワイんです。新しいジャンル、新しいユーザーと向き合うことって、どちらかというとネガティブなことを味わう可能性のほうが確率的には高いので。でも、実は悩みに悩んで転職して、実際に入ってから後悔したことって一度もないんです。総論的には。新しい場所で新しい視点や交流のなかで自分が再び叩かれるから、結果的に手放したことで得られるものが大きい。むしろ手放さないと絶対に新しいものは入ってこないんだ、ということを学んだのも「起業経験」からの学びでした。
僕は地方公務員の息子で、比較的というかけっこう保守的に育てられました。もう将来の夢は「医者か公務員」と七夕の短冊に書いてしまうような。就職活動のときに某新聞社と某出版社、某商社の内定を取らずに「リクルートスタッフィング」という人材派遣会社を選んだときの父親の言葉が忘れられません。「カタカナで書いたような会社には行くな。ちゃんと漢字で書いた会社にいけ」。凄いですよね笑。そのくらいきっちりした親父でしたが、反骨精神だけは強い自分は、リクルート→ディーエヌエー→デロイト→バンダイナムコ→ブシロード、見事なほどに「漢字の会社」には一度も属することがありませんでした。果ては「起業だけはするな」という教えに背き、「Re entertainment」というカタカナどころか英字しかない会社を自分で作りました。いや~、ホントに人の言うことを聞かずに育ってきました。次男なので。
思ってみれば9年間続けたこと、は自分の人生においてほとんど事例がありません。小・高でやっていたサッカー部は合計4年半、中学バスケは3年間、大学の自転車部もまともな活動は2年少々といったところ。100回同じことを続けられたという経験を与えてくれたTORJAには感謝しかありません。同じカナダとは言え、4000㎞も離れたバンクーバーからの投稿、さらに1万4000㎞離れたシンガポール、もうゲーム業界ですらなくなり、果ては日本に戻ってしまった後も、ずっと「エンタメ三昧」として相撲やらプロレスやら観光業からアート、ギャンブルまで様々な連載を続けてきました。月1回というのは宿題のように迫ってくるプレッシャーもありつつ、常に何か新しい素材を見つけないと、という自分の習慣を律してくれました。
創作とは自分が産み落とした子供のようなもの
誰がいったかわかりませんが、わりとこの言葉を大事にしています。自分は絵もかけないし動画もつくれないし、音楽もめっぽう苦手。でも文章だけはわりとずっと書いてきたので、これからも人生書き続けることは間違いないと思います。文章はわが子のようにアイデアを受胎して、養分与えて肥やしながら、わりと苦しく痛みをともなって出産しますが、そうなってくるとどんな子供でもやっぱり愛着が湧いてくるんです。結構忘れやすいので自分で自分の記事読んで「これ書いたの、誰!?」みたいなこともありますけど笑。
こちら、供養ついでにさらしておきます。第7回で突然ゲームと関係ないUber体験記特集になったのは、実は「快感は薄められた苦痛である」というサド侯爵の言葉を引用したその内容が、会社の審査を通らずに出せなかったこちらの記事の差し替えでした。一応「収集/自律/所属/競争/創造/共感のゲーム6要素は、冗長なリアル社会で余計なものを薄めた刺激なのだ」という話とつなげた、それなりに真面目な内容ではあったんですが…やっぱり企業名がついた連載でSM話はダメですよね。転載すると小さくて読めないかもしれないですが、一応なんとなく全体感だけでも。次回第100回は何で締めようかなというのはまだ考えてないんですけど、とりあえず今回の99回目まで、読み続けて頂いた方々、改めてお礼を申し上げます。
中山拝