世界でエンタメ三昧 #33 ~「オタク」という大衆文化~
ブシロードが強みとしているのは、いわゆる「オタクコンテンツ」産業です。我々の事業はトレーディングカードゲーム(玩具)、スマホゲームにアニメ・漫画・ラジオ・声優・グッズ、そしてプロレス。これらはバラバラに見えて、実はとても似通っています。矢野経済研究所の「オタク産業」の定義は「漫画・アニメ・ラノベ・アイドル・コスプレ・ゲーム・プラモデル・鉄道模型」。サッカーも柔道もボクシングも入らないのに、なぜか「プロレス」となるとオタク産業のカテゴリーに入れられます。なぜこうした一見ばらばらなジャンルは「オタク」というワードで囲まれるのか。今回はその理由について考えてみようと思います。
オタクコンテンツは消費者を生産者に進化させ拡大する
オタクコンテンツの一つの特徴は「仮想ファンタジー」です。そもそも「オタク」という言葉が定義され、その存在が認知されたのは1983年。ちょうどファミリーコンピューターの発売、東京ディズニーランド開園など、まさに仮想空間の幕開けの時代。オタクは本質的にデジタル世界の申し子であり、仮想のなかに自らの空想を練りこむ消費者でもあり、生産者でもあります。仮想につくりあげた物語・キャラクターにまつわる情報・グッズを購入し、そこに生まれるストーリーを商業活動として消費する。この「物語消費」が活動モチベーションの源泉になります。なぜそれが日本で起こり、欧米では起こらなかったかは多神教・一神教の違いによるものと第8回「現実とファンタジーの境目(https://torja.ca/business/namco-008/)」で書きました。
そしてこの「消費」は、他産業とはちょっと形態が異なります。モノや道具は消費すると価値が「下がり」ます。食べるとなくなるし、使い続けると古くなる。でも映画をみる、マンガを読む、試合で応援する、こういったコンテンツの消費は、消費することでその物語の価値が「上がり」ます。物理的なものではなく心理的なものに価値があるから、複製・リピートはむしろ世界のリアリティを強固にするのです。消費して自分の中に取り込むと、そのキャラクター・物語・世界にどんどんと愛着が強くなり、消費は自分の制御を超え始めます。グッズが欲しくなり、音楽が聴きたくなり、ライブに出かけて「ホンモノ」に会いたくなります。
この消費の行きつく果ては「ユーザー自身が商品の一部になる」現象です。消費は進化するなかで、消費→批評→参画と進化を遂げます。見るだけだったアニメを、次第にその良し悪しを書き込むようになり、最終的に初心者を勧誘したり批評自体をコンテンツとして昇華させていきます。仮想空間ですからPCや携帯など情報端末がなければ参加することはできず、そしてそれらの端末は本質的に「Outputすることができるもの」。つまりデジタルから生まれたオタクは端末を使って、コンテンツにまつわる情報をどんどんOutputしていき、消費者から生産者に進化していくことで自給自足で市場を大きくする参画者なのです。
オタク文化内でのアイデンティティ獲得競争
消費が消費を呼ぶ、参画が商品価値をあげる、こうした特徴を形成する理由は「コンテンツ消費が個人的なものに留まらず、集団的な現象である」ということなのでしょう。「~が好き」という個人の趣味嗜好の表明は、単に個人的な趣向を伝えるものではありません。オタクのアニメ視聴の行動特性をみると、それは明らかです。彼らの消費選択判断は、極めて「投機的」です。3か月ごとに50本ものアニメが放送される中、どんなにコアなファンでも見れて7〜8本。そうした中で「見るべきアニメ」を選択するとき、アニメそのものの出来不出来ももちろんありますが、むしろ「このアニメは『来る』のか『来ない』のか」という美人投票ゲームのような様相を見せます。つまり「みんなが見るものは見るけど、みんなが見ないものは見ない」という心理です。その先には「人気になったものを自分が最初から支持していた」というドヤが待ち受けています。
なぜこうした消費形態になるのか。ちょっと脱線します。『ハマータウンの野郎ども』という社会学的研究本があります。イギリスの伝統的な工業都市で、いわゆるブルーカラーに属する白人労働者の行動をずっと一緒に生活しながら記述して「なぜ彼らが社会的階級の階段を上がれないのか(大学にいったり、ホワイトカラーの仕事につくこと)」が書かれています。日本で言うと「マイルドヤンキーがなぜ東京に出てこないのか」議論です。
この本の発見を簡単にまとめると「自分たちの社会に足を引っ張られて、違う階級に上ることの難しさ」です。学校の教師の言うことを聞く奴は「耳の穴っ子」とさげすまれ、教師に逆らったり暴力をふるう人間をカッコいいと祭り上げる。一般的に良いとされる行動と真逆の「下げる」行動をすることで、むしろ不良社会では尊ばれ、「上がる」ことになります。
オタクでいうと、服装や見かけを同一化させていくこと(非リア充を装う)、オタク集団における専門用語を身に着けること(古い事例ですが「ダメぽ」「マターリ」など)、こうした日常社会において自分を差別化し孤立化させてしまう行動は、実は合理的に自分をオタク集団に同化させる向社会的行動だ、ということです。結局、正統であろうと対抗的であろうと、自分の属する集団で階層社会をつくり、だれもがその場所で自分のアイデンティティを獲得しようと「正しい行動」を模索しているだけなのです。
集団的な消費の本質は、オタクにとって選択と消費がアイデンティティだからです。どのアニメを好み、流行前に見極める力を持つかどうかはこの集団における「高い位置」を獲得する手段だからです。他の社会においては単なる個人的な趣味の範疇にあるものは、オタクにおいては社会的な所属概念であり、それがゆえに「オタクコンテンツ」は単純に「好きになってくれるもの」というよりは「それぞれがシンボルとして支持表明するにふさわしいもの」を基準に作り出す必要があるのです。
大衆化したオタクコンテンツが「大衆消費」文化を継承する
最初の問い、なぜプロレスは他のスポーツと違い、オタクコンテンツに分類されるのか。「ファンタジーの物語消費」「ユーザー自身が参画して商品価値を上げる」「集団消費に基づく投機的な支持選択」「対抗文化におけるアイデンティティの獲得」、こうした特徴的な要素はまさにプロレスを構成するものです。まず勝ち負けは「強さ」を基準としていません。強さよりも、「見られること」を最優先した体格や技、派閥抗争や喜怒哀楽などリング外のコンテクストも含めた物語。泥試合・逃げ試合もおこる他の格闘技と比べると、試合そのものにストーリーがあり、自分の気分の高まりと呼応するように起承転結もある。ある意味「ハズレの少ない物語消費としての格闘技」は、観客が自分の世界と隔絶した状態で安心して消費できるコンテンツです。競技性と偶発性が強い他のスポーツと比べると、圧倒的なファンタジーな物語に特化した作りこみがされています。
そしてプロレスほど批評を生んでいるスポーツはありません。週刊プロレスからTwitterから、レスラー同士の物語の「解釈」をめぐって、試合そのもの以上の盛り上がりを生み出します。そしてプロレスファンのこうした「理論武装」は、文化内ステータス獲得のための向社会的行動です。まさにユーザー自身が参画するすそ野が大きく広がっているのです。そしてAKBの推しメンではないですが、強さうんぬんより「奴は『来る』『来ない』」といった投機的な支持選択の言動も多々見られますし、プロレスが学校の部活等「公認スポーツ」と比べて対抗的な位置づけにあることは周知のことかと思います。
ただ、ここまで述べてきたオタク像、それはすでに過去のものになりつつあります。もともとオタクが対抗文化だった80年代、その当時はコンテンツの萌え部分とセクシャリティ・バイオレンス部分が不可分でした。宮崎勤事件や児童性愛とともに語られることで、日常社会を脅かすアンダーグラウンドなものとして、どちらかというと倦厭される領域でした。だからこそ、ある意味アイデンティティ獲得に困難を感じる人々の救済場にもなりました。それが、90年代クールジャパンの文脈、日本のサブカルの海外におけるステータス獲得あたりを契機に、大きく変貌しています。NRIの試算では現在のオタク人口は約280万人。これは毎日パズドラやモンストをやっている数とさして変わりません。若者のコンテンツ消費層の母数から抽出すれば、もう10人に1人くらいはオタクコンテンツの消費者といっていい時代です。
80〜90年代の『オタク』文化を引きずっていない欧米では、パブリックにそれを見せる羞恥心を感じません。コスプレイヤーは着替えをせずに自宅から会場まで衣装のまま移動します。そしてスクールカーストの高い、いわゆる「リア充」も呵責なくコスプレに参加していきます。欧米ではオタクは対抗文化ではなく(実際は規模が小さくて対抗文化と認められないレベルの対抗文化的活動はありましたが)、ニュートラルなコンテンツ消費文化であり、最近のマス化した日本のオタクコンテンツもまた、同様の特徴を帯びるようになってきました。最近のアイドルコンテンツは「男の存在しない世界」となり、セクシャリティを一切感じさせない、「萌えのみを抽出したコンテンツ」となっています。それは女性ファンにすら普及しており、徐々にマス文化に近づいてきた印象があります。
最近思うのは「大衆消費社会」という遺産を踏襲できるのは「オタクコンテンツ」なのではないか、ということ。1920年代から半世紀以上にわたって続き、70年代ごろに大きな輝きをみせた「マスメディアが作り出す大衆コンテンツ」は巨人・大鵬・卵焼きという言葉に象徴されるように、誰もが見る唯一固有もの、でした。ただコンテンツのポータビリティがあがり、消費が個別化する時代において、大規模な視線を一つに集中させることは非常に困難になってきています。そうした中で、昔はニッチでしかなかったアニメ・漫画・ゲームといった「サブ」カルチャーは、ファンタジーであるがゆえに時代やメディアの流行りすたりに大きな影響を受けず、最終的には「マスコンテンツ」として残り続けるのではないか、と最近とみに思います。
中山 淳雄
Bushiroadシンガポール法人COOとして日本コンテンツの海外展開に取り組む。リクルートスタッフィング、DeNA、コンサルを経て、直近バンダイナムコスタジオでバンクーバー、シンガポール、マレーシアで会社設立・新規事業展開に携わり、現在 に至る。東大社会学修士、McGill大学MBA修了。著書に”The Third Wave of Japanese Games”(PHP, 2015)、『ヒットの法則が変わった いいモノを作っても、なぜ売れない? 』(PHP、2013)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHP、2012)他。