世界でエンタメ三昧 #35 ~日本式キャラIPビジネス(1)~
著作権が弱いからこそ自由な創作文化
我々ヒット商売、事業がきつくなってくると必ず頼るものがあります。「IP(アイピー=Intellectual Property(知的財産権))」です。毎回そんなに新しいものなんて産みだせません。ディズニーのミッキーもポケモンのピカチュウも、IPを基にしたライセンス収入でビジネスの基盤をつくりあげています。そして成功確率が低いのもありますが、何より競合・選択肢が増えすぎるとユーザーも保守化して、過去の有名なキャラクターに集中するようになってくるのです。だから成熟化すると、決まってIPが過度に重宝される段階に入ります。
ひとくちにIPといっても、色々あります。いわゆる新規性/進歩性を中心とした特許権や工業デザインの意匠権、また営業上の標識やノウハウにいたるものもIPです。ただ我々コンテンツ屋にとってのIPとは産業財産型のように申請して認められるというよりは、「(技術的には誰でも描けるキャラクターの絵や遊ばせ方など)アイデア一つでブランド化したもの」、つまり申請して取得するというよりは著作が世の中に出現した瞬間に生まれる「著作権」をベースにしたものになります。だから「薬の作り方」「輸送機器のデザイン」といった技術的なハードルを乗り越える必要のある特許系と違って、簡単に盗まれやすく、また国ごとに法律も異なるためボーダーレスには管理しづらいものになります。
どのくらいキャラIPが「盗まれている」のか。いわゆる海賊版など模倣品の被害総額は年間10兆円のコンテンツ業界(そのうち海外比率が2000億円程度)のうち、1000億円。1%程度ですが、これは「計測できているもの」ですし、何より海外売上からすれば1/3が海賊版ということになります。被害社数も全体5000社程度のうちの2割強。海外展開している大手企業だけで数えれば、ほぼすべての企業が被害を経験済です(2013年模倣被害調査報告書)。でもそうはいうものの、日本は著作権の権利保護が必ずしも優れた国、というわけでもありません。欧米諸国に比べると日本は著作権での訴訟件数も少なければ、訴訟を起こしたあとの勝率も低く(欧米諸国は4割前後が多く、日本は2割)、IPビジネスを盤石に守り、収益化するための法整備は米国ほどPracticalなものではありません。
ただ面白いことに、著作権が弱いということは一概に悪いことではないんです。「著作権が甘い」ということは逆に言うと、色々ユーザーが二次創作して広める自由度が高い、ということ。コミケでもコスプレでも、基本的には日本の著作権の緩さの網の目をくぐって、ユーザーの自由創作を許してきたからこそ花開いた文化でもあるのです。
言語の違い⇒メディアの違い⇒IPの作り方の違い
実はこのIPの作り方は国によってずいぶんと異なります。まず言葉の使い方からして、そのIP創造過程でよく使われるのが、米国はTrans Media(メディアを超えて)、日本はMedia Mix(メディアをごちゃ混ぜにして)。米国は出版社が「著作権」を丸ごと買い取り、自由に販売に最適な世界観をコントロールし、トップダウンで売っていくことができる。トランスメディアとは複数のメディアをまたがって、統一したものをどんどん広げていきます。「ディズニーランド内でミッキーは一匹だけ」などリアリティを重視した作りこみが行われています。
ところが日本は創造主である著者の作品性を重視し、常に「著作権」が本人に残っており、出版社はそれを特定メディアで販売する代理人にすぎません。そして逆にアニメ、ゲームなどメディアによってその代理作業は別個のプレイヤーが行うため、統一したものを作ることは困難を極め、「パラレルワールドで原作とは別の世界」で描かれやすい。ドラえもんも漫画版が話の本筋でありながら、映画という「番外編の世界観」は時間軸も登場人物同士のクロスした関係性も不透明なまま、量産されていきます。
なぜこうした作り方の違いが出てくるのでしょうか。これは長い歴史の中で培ってきたメディアの構造、というほかありません。映像メディアが主軸の米国において、世界観はすでに完成しています。なぜなら映像は情報の密度が「高い」。ほとんどすべての視覚情報が入っており、そのコンテンツがそのまま世界になってしまい、想像の余地がありません。だから統一した世界観のもと、合理的なバーチャル世界の管理が行われます。しかし日本は漫画・アニメにみるように絵・静止画(のつなぎ合わせとしての映像)中心のメディア文化。情報密度は「低く」、コマの間に描かれる世界・関係性・心理描写などストーリーへのユーザーの介在余地が大きく残されています。自由度が高い、だからこそ、次々にパラレルワールドがつくれてしまうのです。
ここらへんは語ればながーい話になります。メディア発展の歴史、それぞれの産業内でのプレイヤー同士の寡占度、そういったものが影響し合いながら、日米の違いが出来上がっています。垂直統合型の産業構造になっている米国メディア界と、横断分業型の日本メディア界とでは、同じ成功体験でも共通したものをみつけて再現性を高めることが非常に困難です。この違いを生み出す理由として最近個人的に思う一つの大きなポイントとしては「言語の違い」です。アルファベットは表音文字、漢字は表意文字。表音で慣れ親しんだ欧米社会はテクストのみからイメージを浮かび上がらせる力が強いのか、欧米のレストランのメニューはいつも写真がありません。
ところが、表意文字で常にイメージを直接取り込むことができた視覚文化のアジアにおいては、むしろほとんどのレストランが写真付きのメニューリストをそろえています。右脳左脳といった脳科学的な説明も可能そうですが、とにかくアジア/欧米では言語から習慣化された「イメージを想起するクセにあわせたメディア・表記方法」がそのままIPの作り方の違いにつながっているのでは?と思います。
メディアを通じて共通体験を刺激する
コンテンツづくりとは「想像的世界における地上げ屋」という表現を使ったのは大塚英志です。ユーザーの頭のなかで、確かに「ハマれるもの=消費時間・金額をかけられるもの」というのは限界があります。一度ドラえもんにハマってしまうと、妖怪ウォッチがあったとしてもなかなか代替しないように、コンテンツというのは想像世界における土地の取り合いをしているようなところがあります。だからこそ、「全員が経験しているもの」というのはヒットが生まれる、とても大事なポイントです。
「君の名は」では隕石を落とすことによって、「シンゴジラ」では天災と日本政界との両極を描くことによって、時代背景を感じさせるメタファー(東北大震災)を表現しました。その時代すべての人が体験することは、一つのリアリティや感情を共有させます。バブルであればバブルを、不況であれば不況を、これだけ多くの人が同一のイメージを想起できるということは滅多にありません。地上波TVによって体験を同時期に同一映像で経験することによって、そこには「(国境・言語の制限はあるものの)現実」が生み出されます。同一の経験と同一の感情をもつということは、「ヒット=大多数がハマる」という一種「異常な状態」をつくることを可能にします。だからヒットコンテンツを作るということは、ある意味「時代を読む」ことと同義です。
でも同一体験であっても、それを経験していない海外においては「君の名」は流行り、「シンゴジラ」はそれほど流行りませんでした。そこには表現手段と伝えたい最終目的の違いがあります。学生時代と恋愛など「小さな物語」に閉じて、アニメという情報量が少ない形で伝えた「君の名は」は、同種の体験をせずとも海外で受け止められ、国家間政治と意思決定システムという「大きな物語」を実写という情報量が多い形で伝えた「シンゴジラ」は海外の共感性は得にくかった。つまり人がリアリティをもって経験していない事象というのは、共感をもって迎え入れられないのです。
コンテンツづくりとは純粋に物語を練り上げるだけのものではありません。「時代を読むこと」、「メディア特性を生かすこと」、「ユーザーも巻き込んだ共体験に巻き込むこと」、そうした複合的なものをあわせて、そこに物語が人々の心の穴にスポッと入り込むことで、ヒットが生まれます。こうした過程に分析の力をもって無粋な機械仕掛けを暴くことは、我々生産者側にとっては一つの集団的現象の再現を試みるための大事なトレーニングだったりするのです。こうした過程を経て「IPが生まれる」という現象自体は繰り返されていくのです。では具体的にはどうやって…ということはまた今度語りますね。
Bushiroadシンガポール法人COOとして日本コンテンツの海外展開に取り組む。リクルートスタッフィング、DeNA、コンサルを経て、直近バンダイナムコスタジオでバンクーバー、シンガポール、マレーシアで会社設立・新規事業展開に携わり、現在 に至る。東大社会学修士、McGill大学MBA修了。著書に”The Third Wave of Japanese Games”(PHP, 2015)、『ヒットの法則が変わった いいモノを作っても、なぜ売れない? 』(PHP、2013)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHP、2012)他。