園長先生!気付けば息子も大きくなりました・・・第26回 「健人、日本語を学ぶ(後半)」
20年前に誕生した「池端ナーサリー・スクール」。その園長であり創設者の池端友佳理さんのそばにはいつも日系三世のご主人・マークさんと現在21歳で大学在住中の健人くんがいた。母親であり、教育者であり、また国際結婚移民をした友佳理さんとその家族の笑いあり、涙ありの人生をシリーズで振り返ります。
文■池端友佳理 (池端ナーサリー・スクール園長)
私は健人が日本語を学ぶ上で心に決めていた事がある。そのひとつは「健人が日本語を話せて良かったと思ってくれるような場を作る事」、そして、ふたつ目は「日本語を話せて楽しい環境を作ること」だった。
前者については日本語学校や日本での体験入学のお話を前号でしたので、今回は後者の話をしたい。
子供をバイリンガルに育てるために必須なのは、両親共が理解し合った上での『協調性』であろう。両親ともに日本人であればそれは非常に簡単であるが、片親がそうでなかったり日本語が話せなかったりする場合は、子供が生まれた時、どのように子育てして行くのか…漠然とはしていても方向性を持って定めておくのが好ましいだろう。
我が家の場合も、健人が生まれた時に何となくとは言え、だいたい具体的に決めたルールがあった。マークが日系子弟であるため日本語教育に関しては当然、協力的であた。なので日英の分担は日本語が私で、英語に関しては全てマーク、と言ったものであった。例えば、私は健人には日本語だけでしか話しかけない。絵本も私が日本語のものは読んで聞かせ、英語はマークに任せる…と言った簡単なものであった。私と健人の会話は日本語、マークとは英語。そして、もちろん3人の会話は英語。 と、徹底的に決めたのだ。
健人が成長するに連れ、幼稚園、学校、土曜日日本語学校…と範囲を広げるごとにそのルールも多様化はして来たものの、家族内ではしっかりと一定のルールを作り、守り続けて来た。
そのルールとは、その時の健人の気分(モード)を大切にすること。健人が日本語学校に行き、頭の中が完全に日本語モードのときは、とにかく気が済むまで思う存分、言いたい事を言いたいだけ日本語で言わせてあげる。その時、近くにマークがいようといまいと関係はない。健人と私の会話で良いのだ。マークは大人なのだから、我慢して待っていれば良い。言いたい事を言い終わった健人に、私が言う。「じゃ、その事、お父さんにも説明してあげて!」と。子供は嬉しい事、言いたい事は何でも面倒がらず、何回でも話してくれるものだ。そして、英語でマークに話し始めた健人に同調するかのように私も英語で参加し、話しをよりいっそう盛り上げた。
また、日英違う状況の際、例えばアイスホッケーの後、健人の頭の中は興奮状態で英語満載の時、私もマークも一緒になって始めから英語で会話する。例え、それが私に話しかけていたとしても「お母さんには日本語で」などと言わず英語で対応し、一段落したら何気なく先ほどの試合の事も同じ内容の事を日本語で繰り返すと、嬉しそうに今度は日本語で話してくれた。
その時その時、瞬間で子供の頭の中がどのような状況なのか、モードを考えてあげて話す事、それが楽しい会話の環境を続けていける大切な要素だと私は信じている。
何のルールも方向性もなく、ただその時々で親が日本語と英語を切り替えてしまっていたら、それは単に親にとって都合の良い状況を作っているだけとなり、子供(のバイリンガル状況)にとっては効果的ではない。
ただ、マークがそうであったが、子供のバイリンガル教育のためとは言え、私と健人の会話が一段落するまでじっと待ってくれてた。その忍耐力が健人の能力を伸ばしてくれたのだと思う。私と健人は何を話しているか分からない状況であるから、イライラして「何話してるの?英語で話さないと分からないよ!!」と、せかされる様な状況だったら、私も無理して英語に直していたと思う。
今年の初夏に日本から帰って来て空港に着いたばかりの健人と親子3人で食事に行った所、最初の30〜40分は延々日本語でしか話さなかった健人についに待ちかねてマークが口を挟んだ所、健人は「お父さんも日本語を学んどけば良かったのにねぇ。」と溜息で返した。
健人…お父さんが忍耐強く待ってくれたから、健人は日本語を学べたんだよ。と、私は言いたい。全くねぇ。
池端友佳理– 京都出身。大阪の大学看護科を経て同大学病院の産婦人科で看護師として経験後、1990年に渡加。伴侶は日系カナダ人三世。一人息子(大学生)の母。1993年に自宅で池端ナーサリー託児所を開設。1999年日系文化会館内に池端ナーサリースクールを設立。園長を勤める傍ら、カナダ唯一の産後乳房マッサージ師として活躍中。













