世界でエンタメ三昧 #29 スポーツビジネスの可能性
スポーツビジネスの可能性
今回はスポーツビジネスのお話。2020年の東京オリンピックは観光・不動産のみならずスポーツ産業を大きく発展させるためのきっかけとして期待を集めています。そもそも「スポーツをビジネスにする」ということ自体がそれほど明確なコンセプトとなってこなかったなかで、日本のスポーツの産業規模も限定的なレベルにとどまっています。
興行・放送(映像・体験そのものの価値)1.7兆円、スポーツ施設(場所)2.1兆円、小売(関連商品)1.7兆円、あわせて5.5兆円という日本のスポーツ市場。GDPも人口も3倍程度の米国が、スポーツ市場だけみれば10倍もの「50兆円」と比較にならない規模を誇っています。GDP比でのスポーツ事業でいうと米国だけでなく欧州諸国も2〜3%にも及ぶのに対して、日本は1%程度。つまり日本はスポーツビジネス後進国なのです。
米国は各ジャンルのスポーツリーグが映像から興行まで、きちんと収益源を獲得してビジネスとして昇華してきました。各リーグの年間収入はNFL(アメフト)289億円、MLB(野球)228億円、NBA(バスケ)146億円、NHL(ホッケー)84億円。日本で歴史あるNPB(プロ野球)でも118億とMLBの半分以下であり、Jリーグともなると30億円とずいぶんと差があります。欧州でもプレミアリーグやセリエAなどは年間100億~200億を稼ぎ出すようなコンテンツです。何がこうした差を生み出しているのでしょうか?図1をみれば、それが実は決して必然的なものでないことがわかります。
【図1】
実は、20年前まで日米・日英のスポーツビジネス市場にはそれほど差はありませんでした。この20年「スポーツはビジネスにできる」と放映権のライセンスから興行・小売などエコシステムづくりに注力してきた欧米に、むしろトレンドをおさえてキャッチアップしてこなかった日本、という構図が浮かび上がります。
さらに日本では近年、スポーツ市場全体はむしろ減退傾向。ゴルフ場の売上落ち込み、2002年に7兆円だった市場は現在の5.5兆円に至っています。バブル期のスキーレジャーブームも沈静化し、最近のマラソンブームも市場規模を発火させるようなレベルには至っていません。果たして、何がこんな違いを生んでしまっているのでしょうか?
カタチを大事にする武道文化
「スポーツは人間の心技体を高めるものだ」といった精神文化そのものが、ひとつの原因として浮かび上がっています。たとえば「甲子園」、日本の高校野球が位置するところは、世界的なスポーツ慣習のなかでは非常に特異なものです。米国の高校アメフトも近いところがありますが、アマチュアの試合でありながら、夏決勝の視聴率は15%以上に跳ねあがります。夏の2週間だけの間に50万人以上の観客を動員し、その直接支出120億を含めて経済効果は350億円にも及ぶといわれます(これだけでJリーグなどプロリーグと同規模レベル)。
審判もボランティア、完全なトーナメント制での一発勝負、プロでは考えられない連投続投で選手生命を削りながらの試合。さらにそれに続くプロへのスカウトルート。甲子園をめぐるドラマは夏の風物詩となり、あえてプロ野球ではなく甲子園を好んでみるアマチュア好事家を生むコンテンツとなっています。
この高校野球の特異さを象徴するのは、まさに球児に心技体の一致が求める武道の精神。喫煙飲酒事件があると高校全体を含めた監督責任に問われ、チーム全体が出場停止を求められる事件すら起こる。一個人の在り方が組織の運命を決定する連帯責任は他国では考えにくいことでしょう。ルールのフェアさ云々よりも、一団体競技としての様式美と物語を重視した構造になっており、「未完成だからこその美しさ」によって商業活動がなりたっている。礼を崩してガッツポーズした瞬間に負けを宣告される武道の求めるところと同じものが、この高校野球市場にも通底しています。
こんな話がありました。6か国で教育を受けたキリーロバ・ナージャ氏が各国のスイミングスクールの教え方を比較したものです。5歳で当時ソ連でスイミングを覚えた彼女は「プールの底には実はサメがいる。泳ぎが遅いやつは追いつかれて食べられるぞ」ととにかく「スピード」に重点をおいたトレーニングを受けました。その後、日本に移り住み、水泳教室に通いだすと、フォームがなっていない、ビート板からやりなおせと指導されます。
スピードは実際に速かったけれど「泳ぎのカタチ」を徹底的に矯正されたそうです。その後彼女はアメリカにも移住し、さらに異なる教え方に遭遇します。アメリカではスピードもフォームも関係ありません。「あなたこのままだと海に流されたら30分ももたないわよ」と10分間浮く訓練をさせられるのです。アメリカは「持久力」が教育の要諦だったといいます。ちなみに彼女はその後カナダにわたり、そこでは「総合力」とバランス型で教えられた、とのこと(dentsu-ho.com/articles/3880)。
この話は各文化が大事にしているものが如実にあらわれた象徴的なエピソードといえるでしょう。日本が実質的ではない、と批評するつもりは毛頭ありません。カタチ・形式を大事にするからこそ日本文化がはぐくんだ職人型の市場もありますし、実際にそれが現在の競争優位につながっています。ただ、なぜスポーツがビジネス化しなかったのかという問いにはこのエピソードが強いボトルネックとして浮かび上がります。
経済をまわさなければ人材は育たない
経済活動としてまわっていないものは、優れたプレーヤーを生み出す資本も環境もつくれません。人口が多ければ確率的にスゴい人材が現れる、というわけではないのです。例えばインド。10億人もの人口を擁しながら、中国やブラジルなどと比べるとオリンピックでのメダル獲得数は圧倒的に少ない。インドが1900年以来のオリンピックで獲得したメダル数は、アメリカの「史上最強のスイマー」マイケル・フェルプス1個人と同じ(28個)。この国はクリケットがあまりに有名でそれ以外のスポーツ選手が育たないというジレンマに陥っています。
そもそも小中高など義務教育の過程のなかで運動を習慣化する制度も設備も整っていません。オリンピック選手になっても、日常的に訓練をする場所に困ったり、試合のたびの渡航は自腹で、といった運営をしている限り、わずかな差で結果が左右されるトッププレイヤーの戦いに食い込むことはできません。産業をつくりだす人材育成とはまさに文化的、制度的、経済的なサポートがうまくバランスした上になりたつものなのです。
ではカタチや様式にこだわり、ビジネス化を徹底できない日本にスポーツ産業の振興は難しいのか?これは各論Yesであっても、総論Noではありません。この産業は成功事例があまりに足りません。学べる事例が少なすぎるのか、あっても明文化されていないため、ノウハウの移転がききません。
そうしたなかでDeNAの横浜ベイスターズやBushiroadの新日本プロセスの再生秘話がいままさに萌芽をみせはじめており、まさに今このタイミングでこうした事例をふくらましていけるかに日本のスポーツビジネス化の未来がかかっている大事な局面にある、と強く感じます。
中山 淳雄
Bushiroadシンガポール法人COOとして日本コンテンツの海外展開に取り組む。リクルートスタッフィング、DeNA、コンサルを経て、直近バンダイナムコスタジオでバンクーバー、シンガポール、マレーシアで会社設立・新規事業展開に携わり、現在 に至る。東大社会学修士、McGill大学MBA修了。著書に”The Third Wave of Japanese Games”(PHP, 2015)、『ヒットの法則が変わった いいモノを作っても、なぜ売れない? 』(PHP、2013)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHP、2012)他。