伝統の道を拓く④|金継ぎ開拓民のお茶休憩
春になると、日本人は自然と桜のある場所へと足を運びます。花を愛で、時に宴を開きながら、華やかでありながらも儚い春の象徴とただ共にいるだけで、静かな喜びを感じるものです。
トロントにも桜の木があり、春には多くの人が訪れますが、そこで気づいたのは、人々の花に対する意識の違いでした。桜の枝を顔の近くに引き寄せる、花びらを散らすために枝を揺らす、さらには木に登る──私たちにとっては驚くような行為も、彼らにとっては「素敵なセルフィーを撮るため」の自然な行動でした。
長く日本に滞在していたカナダ人がこう話してくれました。「日本人は、モノにも何かしら魂のようなものを感じ、その由来を含めて敬意を持って接する。一方で、世界的に見ると、モノは“神が人間に与えたもの”か、あるいは“自分の地位や財産によって手にできるもの”という考えが根強く、自分本位な振る舞いになりがちだ」と。
英語で金継ぎについて調べるようになると、自ら器を壊し、金継ぎとは異なる技法で接着箇所を金色にした作品が“Kintsugi”として紹介されている例が非常に多いことに気づきます。なぜそのようなことが可能なのか不思議に思っていましたが、先のカナダ人の言葉に、その理由が重なりました。
おそらく、彼らにとっては器という完成品でさえ、自分の表現や欲求を満たすための素材となり得るのでしょう。わざと破壊という“悲劇”を演出し、そこから美しく“再生”させるという自作自演を恥ずかしげもなく行うことができるのです。
彼らはモノだけでなく、文化さえも都合よく使うことができます。たとえば、化学接着剤に金色の粉を混ぜたり、接着部分を金色の絵の具で塗ったりといった独自の技法に、“Kintsugi”という名前と“Japanese Traditional”というブランディングを添えて、オリジナルの哲学を語り、クラスを開き、キットを販売する。世界ではそういったビジネスが広がっています。
金継ぎにおける文化の盗用は、SushiやKimono以上に深刻な問題です。というのも、寿司や着物は日本へ行けば本物に触れる機会が多く、その定義や歴史を伝える団体も存在しています。しかし金継ぎは、歴史的な経緯から日本人の間でもあまり知られておらず、組織も存在しません(詳しくは当コラム第一回『「金継ぎ師」は存在しなかった』をご参照ください)。
こうした状況の中で、まずは情報を共有し意見を交わす場が必要だと感じ、私は2021年2月、SNSで活動する金継ぎ関係者に声をかけ、オンラインで「全日本金継ぎ会議」を開催しました。









